は・じ・め・て、アンデルセンの「マッチ売りの少女」を読みました。
娘のバレエレッスンが終るのを待つ車の中で本を読んだのですが、ハッピーエンドではなく死じゃうんだぁ~と止めどもなく涙が流れました。
小学、中学時代はほとんど本を読みませんでした。中学の時に、図書室から本を借りたのが1回切りで、その1冊を借りたことを後悔しておりました。
読まないことを、その当時は自慢し、今じゃ後悔しております。
私のように「マッチ売りの少女」を読んだことがない人へ
マッチ売りの少女
The Little Match Girl
ハンス・クリスチャン・アンデルセン作
結城浩訳
ひどく寒い日でした。 雪も降っており、すっかり暗くなり、もう夜 ―― 今年さいごの夜でした。 この寒さと暗闇の中、一人のあわれな少女が道を歩いておりました。 頭に何もかぶらず、足に何もはいていません。 家を出るときには靴をはいていました。 ええ、確かにはいていたんです。 でも、靴は何の役にも立ちませんでした。 それはとても大きな靴で、 これまで少女のお母さんがはいていたものでした。 たいそう大きい靴でした。 かわいそうに、道を大急ぎで渡ったとき、少女はその靴をなくしてしまいました。 二台の馬車が猛スピードで走ってきたからです。
片方の靴はどこにも見つかりませんでした。 もう片方は浮浪児が見つけ、走ってそれを持っていってしまいました。 その浮浪児は、いつか自分に子どもができたらゆりかごにできると思ったのです。 それで少女は小さな裸の足で歩いていきました。 両足は冷たさのためとても赤く、また青くなっておりました。 少女は古いエプロンの中にたくさんのマッチを入れ、 手に一たば持っていました。 日がな一日、誰も少女から何も買いませんでした。 わずか一円だって少女にあげる者はおりませんでした。
寒さと空腹で震えながら、 少女は歩き回りました ―― まさに悲惨を絵に描いたようです。 かわいそうな子!
ひらひらと舞い降りる雪が少女の長くて金色の髪を覆いました。 その髪は首のまわりに美しくカールして下がっています。 でも、もちろん、少女はそんなことなんか考えていません。 どの窓からも蝋燭の輝きが広がり、 鵞鳥を焼いているおいしそうな香りがしました。 ご存知のように、今日は大みそかです。 そうです、少女はそのことを考えていたのです。
二つの家が街の一角をなしていました。 そのうち片方が前にせり出しています。 少女はそこに座って小さくなりました。 引き寄せた少女の小さな足は体にぴったりくっつきましたが、 少女はどんどん寒くなってきました。 けれど、家に帰るなんて冒険はできません。 マッチはまったく売れていないし、 たったの一円も持って帰れないからです。 このまま帰ったら、きっとお父さんにぶたれてしまいます。 それに家だって寒いんです。 大きなひび割れだけは、わらとぼろ切れでふさいでいますが、 上にあるものは風が音をたてて吹き込む天井だけなのですから。
少女の小さな両手は冷たさのためにもうかじかんでおりました。 ああ! たばの中からマッチを取り出して、 壁にこすり付けて、指をあたためれば、 それがたった一本のマッチでも、少女は ほっとできるでしょう。 少女は一本取り出しました。 ≪シュッ!≫ 何という輝きでしょう。 何とよく燃えることでしょう。 温かく、輝く炎で、 上に手をかざすとまるで蝋燭のようでした。 すばらしい光です。 小さな少女には、 まるで大きな鉄のストーブの前に実際に座っているようでした。 そのストーブにはぴかぴかした真鍮の足があり、てっぺんには真鍮の飾りがついていました。 その炎は、まわりに祝福を与えるように燃えました。 いっぱいの喜びで満たすように、炎はまわりをあたためます。 少女は足ものばして、あたたまろうとします。 しかし、―― 小さな炎は消え、ストーブも消えうせました。 残ったのは、手の中の燃え尽きたマッチだけでした。
少女はもう一本壁にこすりました。 マッチは明るく燃え、その明かりが壁にあたったところはヴェールのように透け、 部屋の中が見えました。 テーブルの上には雪のように白いテーブルクロスが広げられ、 その上には豪華な磁器が揃えてあり、 焼かれた鵞鳥はおいしそうな湯気を上げ、 その中にはリンゴと乾しプラムが詰められていました。 さらに驚いたことには、 鵞鳥は皿の上からぴょんと飛び降りて、 胸にナイフとフォークを刺したまま床の上をよろよろと歩いて、 あわれな少女のところまでやってきたのです。 ちょうどそのとき――マッチが消え、厚く、冷たく、じめじめした壁だけが残りました。 少女はもう一本マッチをともしました。 すると、少女は最高に大きなクリスマスツリーの下に座っていました。 そのツリーは、 金持ち商人の家のガラス戸を通して見たことのあるものよりもずっと大きく、 もっとたくさん飾り付けがしてありました。
何千もの光が緑の枝の上で燃え、 店のショーウインドウの中で見たことがあるような楽しい色合いの絵が少女を見おろしています。 少女は両手をそちらへのばして――そのとき、マッチが消えました。 クリスマスツリーの光は高く高く上っていき、 もう天国の星々のように見えました。 そのうちの一つが流れ落ち、長い炎の尾となりました。
「いま、誰かが亡くなったんだわ!」と少女は言いました。 というのは、おばあさん――少女を愛したことのあるたった一人の人、いまはもう亡きおばあさん――がこんなことを言ったからです。 星が一つ、流れ落ちるとき、魂が一つ、神さまのところへと引き上げられるのよ、と。
マッチをもう一本、壁でこすりました。 すると再び明るくなり、その光輝の中におばあさんが立っていました。 とても明るく光を放ち、とても柔和で、愛にあふれた表情をしていました。
「おばあちゃん!」と小さな子は大きな声をあげました。 「お願い、わたしを連れてって! マッチが燃えつきたら、おばあちゃんも行ってしまう。 あったかいストーブみたいに、 おいしそうな鵞鳥みたいに、 それから、あの大きなクリスマスツリーみたいに、 おばあちゃんも消えてしまう!」 少女は急いで、一たばのマッチをありったけ壁にこすりつけました。 おばあさんに、しっかりそばにいてほしかったからです。 マッチのたばはとてもまばゆい光を放ち、昼の光よりも明るいほどです。 このときほどおばあさんが美しく、大きく見えたことはありません。 おばあさんは、少女をその腕の中に抱きました。 二人は、輝く光と喜びに包まれて、高く、とても高く飛び、 やがて、もはや寒くもなく、空腹もなく、心配もないところへ――神さまのみもとにいたのです。
けれど、あの街角には、夜明けの冷え込むころ、かわいそうな少女が座っていました。 薔薇のように頬を赤くし、口もとには微笑みを浮かべ、 壁にもたれて――古い一年の最後の夜に凍え死んでいたのです。 その子は売り物のマッチをたくさん持ち、体を硬直させてそこに座っておりました。 マッチのうちの一たばは燃えつきていました。 「あったかくしようと思ったんだなあ」と人々は言いました。 少女がどんなに美しいものを見たのかを考える人は、 誰一人いませんでした。 少女が、新しい年の喜びに満ち、おばあさんといっしょにすばらしいところへ入っていったと想像する人は、 誰一人いなかったのです。
Copyright (C) 1999 Hiroshi Yuki (結城 浩)
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プロジェクト杉田玄白正式参加作品。
先週、松戸で「まちっこプロジェクト」という面白い試みの発表会がありました。
「Matsudo Child to Community Project」から「まちっこプロジェクト」とオシャレに名付けています。格好良いです。
医師会と行政と教育委員会のコラボレーションによる画期的なプロジェクトです。
「Child to Child」:小学校高学年のお兄ちゃんお姉ちゃんに手洗い、うがいの大切さを授業で教え、各自家に帰ったら大切な弟たち妹たちに手洗いうがいの大切さを伝えるよう指導する。
「Child to Parents」:タバコを吸うから止められなくなってしまう。喫煙防止することによりタバコの害から子供たちの健康を守ることができます。そればかりではなく、タバコを1本吸うごとに寿命が15分短くなることを喫煙している親に伝え、禁煙へ導いてあげる。
「Child to Community」:子供たちに健康の大切さ、認知症とは何だろうか、かかりつけ医とは何だろうか、病気になることって何だろうか、死ぬって何だろうか、いのちの大切さを伝え、自宅に帰って家族みんなでいのちのことを考えて、どんな人生を、どんな地域を、どんな社会を創りたいのかアンケート提出する試みを松戸でしています。
すごい試みです。医師は忙しい日常診療の時間をつぶして、いろいろな資料を作り工夫しまくり、そしてボランティアで授業に参画しています。「地域医療」と「地域教育」の統合、地域の子供たちを地域の医師たちが育てる実践に感心しました。
⇒ 「松戸まちっこプロジェクト」
「Child to Community」から「子供たちから周りの大人へと・・・」
子供たちの力で地域はもっとつながり合える。
子どもたちに"伝えたい"ことがあります。
人が生まれること、支え合って生きること、その尊さを伝えたい。
子どもたちに"伝えてほしい"ことがあります。
自分のこと、家族のこと、地域のこと
医師たちによる「出前講座」で学んだことを、周りの大人たちに伝えてみて下さい。
あなたたちの言葉で、変わる未来がきっとあるはずです。
今回の「まちっこプロジェクト」の紹介に書いてあるメッセージです。
格好良いです。
子供たちから社会を変えるという発想は素晴らしいです。
私の先輩である川越先生から、プロジェクトのこれからの展望などを説明していただき
松戸医師会長である和座先生から、豊かな人間関係が沢山ある人ほど幸せな人生を築くことができるというお話しをいただきました。
とっても充実した時間を持つことができました。有難うございました。
千倉と松戸、同じ千葉県です。でも、高速道路で千倉から松戸に向かうためには、神奈川(川崎)、東京(箱崎、向島)、埼玉(三郷南)を通って千葉に戻ってくるルートが一番の近道だと知り驚きました。近くて、遠いですね。
今、松戸はおもしろい。在宅医療先進地域、カリスマ行政マン?もいる。
和座先生、苛原先生、和田先生、川越先生もいる。マツモトキヨシもある。
その松戸で、5月、グループホームの話しをする予定になっています。
「幸福大国」は「教育大国」である。だから、デンマークに行きます。
「教育大国」を目指し、昨年度は千倉小学校PTA活動を頑張りました。
その結果、創立二年目で千倉小学校は文部科学大臣賞をとりました。日本一になったのです。
長岡初代PTA会長の下、スタートダッシュしました。
二年目、高木校長先生と山口尚さんPTA会長の連携のもと、様々なPTA活動をしました。
天才カリスマ教頭の義道(ぎどう)先生の力も指導力も素晴らしかったのですが、私たちPTA幹部は義道先生の言いなりばかりにはなりませんでした。逆らいました。
千倉小学校正門前で、毎日、高木校長先生と尚さんPTA会長が日本一の挨拶を目指し子供たちを迎え入れました。
夏の暑い昼下がり、義道教頭先生が捻りはち巻きをしながら、大粒の汗をかきながら草刈りをしていました。
朝早くから、夜遅くまで、多くの先生方が千倉小学校で仕事をしていました。感謝申し上げます。
PTA活動
千倉(ちくら)飯豊(いいで)こども交流会を千倉小学校PTA行事に格上げしました。
放課後こどもクラブで、ゴールデンエイジの子供たちに一生の宝になるものを授けようと工夫をしました。
一生の思い出となるイベントを考えました。
東日本大震災のことを、門脇小学校の鈴木洋子先生に語っていただきました。
⇒ No.117 『東日本大震災・魂の語り』(2015年11月22日)
第二次世界大戦沖縄戦の若き語り部として太田光さんに語っていただきました。
⇒ No.122 『沖縄から届いた平和・27歳の美ら』(2015年12月15日)
⇒ No.123 『沖縄から届いた平和・27歳の美ら・その2』(2015年12月16日)
その他、様々な活動をしてきました。
そんな中でも私が一番評価していることが、千倉飯豊こども交流会です。
子供たちに一生の思い出を創らせることができるイベントで、修学旅行以上かもしれません。
千倉小学校への統廃合の忙しい過程の中で消えてしまいそうになったところを、鈴木務さんたちが中心となり粘り、継続させることができました。
側で私は見ていたので大変さは理解しており、この千倉飯豊こども交流会のおかげで文部科学大臣賞を取ることができたと思っております。鈴木務さんにノーベルねばり賞!
そんな千倉飯豊こども交流会が今年も開かれました。
2月初め、山の子たちが海の子たちに会いに千倉へ来ました。
一面雪だらけで銀世界から雪など無くお花が咲き乱れている海辺の町へ来たのです。
山形県飯豊町の子供たちが千倉を訪れたのです。飯が豊かと書き、飯豊(いいで)と呼びます。
日本の三大和牛は、松阪牛、神戸牛、米沢牛です。その米沢牛の大部分が米沢市の隣にある飯豊で育てられているのです。
米沢牛ではなく飯豊牛と呼んでも良いかもしれませんね。
飯豊と千倉、ほとんど同じ経度です。違うのは緯度で、雪国の飯豊と雪など無い温暖な千倉。
四方を山に囲まれている飯豊と海に面している千倉。農産業の飯豊と水産業の千倉。
飯豊と千倉、どちらも田舎、似ているような似ていないような町です。
その飯豊町の子供たちと千倉町の子供たちの交流が40年以上続いております。
途中、千倉の四小学校(七浦小学校、忽戸小学校、朝夷小学校、健田小学校)が一緒になって千倉小学校になった時、統廃合の忙しさで千倉飯豊子供交換会が消えてしまいそうになりました。しかし、鈴木務さん、山口尚さんたちの頑張りで継続できるようになりました。
昨年度の千倉小学校のPTA活動が評価され、文部大臣賞を頂くことができました。
千倉小学校創設二年目の快挙です。凄いことです! 一応、私、PTA副会長でした。
PTA会長の山口尚さんと千倉小学校の高木校長先生とが一緒になり、千倉飯豊子供交換会を千倉小学校のPTA行事に格上げして頂き継続することができるようになりました。
私たちのすべきことは、地域の子供たちは地域で育てること。これが地域教育です。
子供たちを優しい人間に育て上げ、子供たちに一生の思い出をたくさん創ってあげて、
人間力のある子供たちをたくさん育てたいと思います。
勉強ができるためでもなく、有名大学に行かせるためでもなく、お金持ちになるためでもなく、幸せになるために、地域の人たちが地域の子供たちを育てることが大切だと思います。
それを地域教育と呼ぶだろうし、そのための地域のパワーが地域力になるでしょう。
お金のために頑張ろうとすると、幸せは逃げて行くような気がします。
今のトランプ大統領をみていると、そんな思いになります。
自分だけが幸せになることはできません。まずは幸せを周りに配り、そうすると幸せは回り回って自分のところへ戻ってきて、みんなが幸せになることができるだろう。
有難うと言えば有難うという言葉が返ってきて、この野郎と言えばこの野郎という言葉が返ってくる社会、そんなものでしょう。
一面雪だらけの銀世界から4週間ぶりに山の子が海の子の町に来ました。
そこは温暖な房州、チョッと前にお友達になったお友達の家にお泊まりし、お花畑で花摘みをし、サザエカレーを食べ、雪一つないグラウンドでサッカーをして時を過ごしました。
子供たちは、海の向こうに霊峰富士山が見える合宿所で貝細工を創り、最後の夜を楽しみ、別れを惜しみながら、たくさんの楽しい思い出とともに山形飯豊へ持ち帰りました。
山の子供たちと海の子供たちの交流が続いたことに感謝します。
本日、2月22日夜、千倉小学校が文部科学大臣賞をいただいた祝賀会があります。
私はお江戸で仕事なので出席できませんが、これからも内閣総理大臣賞とノーベル教育賞を目指し、地域で千倉小学校の子供たちの未来を創って行きたいものです!
本日、2月16日は母・松永イサヱの命日です。
1997年に亡くなりましたので20年経ったということになります。早いものです。
72歳の年齢で亡くなりましたので、私も72歳で死ぬと思っております。
母は長崎県五島列島生まれ。黄島(おうしま)という小さな島で生まれたそうです。
男兄弟ばかりの末っ子娘だそうで、みんなから可愛がられたようです。
大阪日赤で看護師になり、長崎原爆が落ちた後の医療支援で長崎に入り黒い雨に濡れて原爆被爆者になりました。
そして、長崎の病院で父・松永春二と出会い、結婚したそうです。
その結婚するに辺り、父があまりにも変人だったもので周囲のほとんどの人が結婚に反対していたそうです。
私は母が大好きです。そして、父は大嫌いです。
父は個性が強すぎて敵をつくり、熱烈な患者さんをつくります。
逆に母は誰にも挨拶をし、争うことを嫌い、謙虚で、優しい母でした。
母のことを悪く言う人はいなく、働き者だと千倉の皆さんが感心してくれました。
自転車に乗れないものだから、いつも小走りで買い物に行っていました。
その当時、松永医院には入院施設がありましたので、母は看護師として日勤、準夜、深夜と一日中働き、3食の給食を作り、朝6時と夜中の12時の服薬のため入院患者さんの枕元へ薬を運び、松永医院の掃除、そして私たち子供の面倒をみていました。
すごいんです。そんな生活を24時間365日続けていました。
父からは強さを教えていただき、母からは優しさを教えていただいたと思っています。
私の夢、母を幸せにすることだったかもしれません。
母の最期、アッケなかったです。
原爆後遺症なのか、母は多発性骨髄腫の治療のために大学病院に入院していました。
日曜日、私が母のお見舞いへ行くと、母は突然の心肺停止。
心臓マッサージなどの人工蘇生が開始され、そして緊急手術へ。
何が起きたのかわからず、ダグラス窩穿刺をしたら便臭のする液体が採取され、緊急開腹手術が行われました。
腸間膜の多発梗塞で腸管壊死を起こしていました。
内閣総理大臣であった橋本龍太郎氏も同じ病気で亡くなりました。
私の妹は外科医です。彼女の上司である教授が日曜日の夕方にもかかわらず大学病院に現れ、負け戦とわかっているのに私たち子供の気持ち汲み取り、無理して緊急手術をしてくれました。開腹して直ぐに母の心臓が止まりました。術中死です。
外科医として術中死は一番の恥です。それを覚悟で教授が手術をして下さいました。
申し訳ないです。
教授が私たちに「気が済んだか?」と小さく言った言葉が、今でも耳に残っています。
あってはならないことが起きてしまった。
認めたくなくても、息をしていない母が目の前に横たわっていました。
ただ呆然、物事を考えると無性に涙が流れました。
母が亡くなり10年経っても、母の話をしようとすると言葉が詰まり、涙が流れます。
後悔するばかりです。
やっと最近、母の昔話を患者さんとすることができるようになりました。
でも、今、また涙を流しながらこのブログを書いています。
人は人生の最後に「お母さ~ん!」と叫んで死んで行くんでしょう。
決して、「お父さ~ん!」と叫ぶ人はいない。かな。
そして、あの世で母に再会できることを楽しみにしています。
それまで一生懸命に生きていきますね、お母さん。
今年もバレンタインデーが来た。私はモテモテだ。
二十歳の娘が一人で充分だと、せめて二人までにしておいてと思っているところ
二十歳の娘が4人も、場合によっては5人も一個の個体に凝縮した女性からモテモテである。
ド~ンとガーナ板チョコが5枚まとめてスーパーの紙で包まれた状態でもらいました。
まるで、1万円札100枚の束が診察室の机の上に置かれて・・・と妄想してしまいます。
ストレートど真ん中に直球を叩き込む! っというノリです。
実は、私、チョコレートが嫌いです。
私が6歳頃、チョコレート欲しさに電線を触ってしまい、感電死しそうになったからです。
痛い目に遭ったのです。パブロフの犬実験です。
なので、私は高級チョコしか食べない。
銀座4丁目が二つほど入っているチョコ
ベンツが3台ほど入っているチョコ
スカイツリーが5本ほど入った詰め合わせチョコしか食べない!
と言っています。
でも、今のチョコレート、めちゃくちゃ美味しくなっています。
しかも、お値段が高い。小っちゃな一粒が500円ほどするものがあります。
そして、我が家
娘たちからVitamin"愛"の詰まったチョコが届きました。
でも、このコチョ、どこかで見たことがある・・・。
デンマーク (トリップアドバイザー提供)
この週末、土曜日、デンマーク行きの説明会がありました。
世界第一位の「幸福大国」、福祉先進国家、寝たきりゼロ国家、私たちが目指すべき国家
その影に、アルコール依存症が多い国、自殺率の高い国でも有ることを知りました。
デンマーク行きの準備が始まります。楽しみです。
来週にはパスポートの申請をします。ご主人様のアタッシュケースを借りました。
デンマークでお世話になった人への土産も決めました。
福祉視察ツアーの同行する仲間たちにも会いました。これから同じ釜の飯を食べます。
なんと高校生の仲間もいます。医師は私一人の模様です。
平日に海外旅行のできる医師なんか普通はあり得ませんよね。
デンマーク、この辺りのことは、これからブログに紹介しますね。
日曜日、朝から夕まで千葉で小児疾患のお勉強をしてきました。
6時間以上の講習で、ターナー症候群のように学生時代に勉強したきりで会ったことのない疾患や、プラダー・ウィリ症候群のように見たことも会ったこともない疾患もありました。
疲れました。拉致され、拷問を受けたようなものです。
小児慢性特定疾患指定医の更新のために受けなければならない講習のようです。
どうせ受けなければならい授業なら何かを学ばなければ・・・と寝ずに頑張っています。
低身長の子供、親からもらった遺伝子、置かれたところで成長しなさい!
っと思っておりましたため、ほとんどが経過観察していました。
しかし、病気がちゃんとあるんですね。身長-2SD以上の低身長は要注意。
専門医に紹介する視点を強く意識しました。
昼は、糖質制限している私、またも背脂ベットリのラーメンを食しました。
宇・真・医!
次回は、味噌ラーメンにチャレンジしようと思います。
午後は心疾患、そして血液疾患、悪性疾患と続きます。
頑張りませう!
昔なら生まれてくることもないいのち、生まれてきても死んでしまったようないのち
人工再生治療のおかげで高齢出産が可能となり、生まれてこれなかったいのちが生まれてくるようになりました。
そしてその影に、先天的疾患を持ち、ハンディキャップを持ってくる子供たちも増えております。
小児科の世界は、人工的副産物の世界であり、死んだら怒られる世界でもあります。
「診療所に通院しながら何で病気になるんだ!」「病院に入院したのになんで死ぬんだ!」
なんかおかしな社会となっています。ヘタをすると訴えられる世界にもなっています。
それ以上に、私が小児科専門医をあきらめた理由としては、子供だけでなく親にも躾けを指導しなければならない世界があり、私には不可能と考えたからです。
私が中学生の頃、落合恵子さんの「スプーン一杯の幸せ」という本がベストセラーとなり、卒業色紙に女子が「スプーン一杯の幸せ」という文字を書き込み並べていました。
そんな落合恵子さんのお話を福岡の久留米で聞いてきました。
落合さんの誕生日は1945年の1月と自己申告していました。現在、72歳となります。
終戦の年に生まれ、戦後民主主義と共に生きてきたそうです。
○は○、×は×、納得しないと動こうとしない、自由に生きる世代でもあるそうです。
落合さん、認知症の母親を6年間在宅で見た経験に基づくお話をして頂きました。
落合さん、父親がいません。つまり、母親はいわゆるシングルマザーです。
母親の身内は教職員一家で厳しく、シングルマザーを認めてくれるような環境ではありませんでした。
でも落合さんの母親は22歳で落合さんを産み、女手一人で育て上げました。
その当時、シングルマザーに対する社会的偏見は強く、女性の労働力も安かったと思います。
そんな社会の中で、落合さん自身も「てて無し子」と呼ばれながら生きて来たそうです。
落合さんが15歳の時、母親に何で苦労するのがわかっているのに落合さんを産んだのかという質問したそうです。
きつい質問です。
お母さんは、「好きな人と結ばれて授けて頂いたいのち、だから何が何でも産もうと思ったのよ。
あなたが生まれてくるのを待ちに待った。あなたに会いたくて、会いたくてたまらなかったの。
そんなあなたと一緒に、でも別々に生きていきたいと願ったの。」と答えたそうです。
涙が流れました。
きつい時代に、きつい生き方を選んだ落合親子。差別される側として生き抜いて来たと思う。
だから、弱さを知って強くなったのだろう。落合さんは、普通ではない生き方をしてきたと思う。
多様性の少ない時代に、親子で優しく手をつなぎ、少しだけ社会の窓を開けてきたのだろう。
強きに逆らい、弱者を意識した視点を常に持ちながら社会活動をしてきています。
そんな母親が認知症になり、約7年間の介護を経て、落合さんは母親を看取りました。
壊れていく母親、指の間から記憶がドンドンとこぼれ落ちていく。
強く生きてきた落合さん、親子で頑張って、頑張って、支え合って、弱音を吐かず、様々な困難を乗り越えてきました。
強かった母親が、できることがどんどんできなくなり、弱くなり、歩けなくなり、衰えて行きました。
悲しく、切ないものです。
そんな強く生きてきた落合親子に、在宅で母親を診てきた医師が弱音をはいて良いんだよという助言した瞬間、涙が止めどもなくポトポトと音をたてながらこぼれ落ちたそうです。
在宅で看取ると、大変で悲しいけど、やり切った思いを持つことができます。
涙の中、笑顔で最期を看送ることができます。
Quality Of Death を達成した瞬間です。
最期に家族は疲れ切ることが大切です。
最期に思い出をたくさん創ることが大切です。
やることをやれば、無くなったあとも思い出すことができます。
亡くなっても無くなっていないのです。心の中で生きているのです。
前回、落合さんの介護真っ最中のお話しを聞きました。
今回、母親を看取ったあとのお話しで、とっても説得のある、涙の物語でした。
写真: 落合 恵子さん ※第24回 日本ホスピス・在宅ケア研究会全国大会 in 久留米 ホームページより
怒髪(どはつ)と世間の人は言います。
髪の毛を洗った後に首を一降りするだけで済む介護から来た髪型だそうです。
ワンちゃんの首振りと一緒ですね。
この週末、九州・久留米にホスピスケアと在宅ケアの勉強に行きました。
千葉には久留里がありますが、久留米です。30万人都市です。
九州豚骨ラーメンの発祥の地でもあるそうです。糖質制限の私、食べました。
金曜日の夜、山形県飯豊(いいで)町からの子供たちがやって来ました。
その保護者たち、飯豊第一小学校の先生方、飯豊町の役員の方たちを迎え入れるカッポレが開かれました。
海の幸のおもてなし、カッポレです。
翌朝4時前に起き、4時半頃千倉を出発し、順調に1時間で羽田に到着しました。
午前6時15分発の福岡行きの飛行機に乗り、久留米の会場に到着したのが午前10時。
丁度良いあんばいでした。
午前中の松永醫院の外来をせずに、土日、め一杯勉強に行けるのも吉岡玲奈先生が来て下さったおかげ。
我がご主人様も外来を手伝ってくれた模様。素直に有難うと言えない、私。
感謝。図に乗り、来月はデンマークへ行ってしまいます。
今回、始めて日本ホスピス・在宅ケア研究会全国大会に参加しました。
なぜなら、大会長が尊敬する二ノ坂保喜先生だからです。
二ノ坂先生は、長崎大学を卒業したあとに福岡で開業しました。
私の父・松永春二は、九州大学を卒業したあと、故郷である長崎に戻りました。
似ている二人です。DNA的に親和性を感じております。
その二ノ坂先生、この5月に館山へ講演しに来て下さいます。
楽しみですね。
ホスピスという言葉は、宗教的な意味合いが入って来そうで嫌で、癌で死に行く人が対象になり、施設ホスピスがホスピスであるという誤解が蔓延していると思っているからです。
しかし、二ノ坂先生は、ホスピスケアは全ての人が対象であり、より良く死ぬだけで無く、より良く生きるためのケアであることを仰っています。
「いのちを受け止める町作り」がメインテーマであり
「日本のホスピスが忘れてきたのもの」がサブテーマです。
内容の濃い二日間となりました。
初日午前、赤ひげフォーラムで先駆的地域医療を行った4医師の発表がありました。
町田の西嶋公子先生、徳島の鬼頭秀樹先生、与論島の古川誠二先生、岐阜の土川権三郎先生。
どの先生も長年にわたり、地域とつながり、地域の福祉力を育ててきました。素晴らしい。
昼は、認知症先進地域である大牟田のカリスマ・大谷るみ子さんのお話を聞き
午後は、落合恵子さんのお話を聞き → 後日、紹介予定
二ノ坂先生のお話を聞き
夕にはDr.クマールのEnglish Lecture、堀田聡子さんのホスピスの世界的流れのお話を聞き、懇親会と流れていきました。
夜、宿に戻り、独り久留米の繁華街の中に溶け込んで行きました。
久留米ラーメン、食しました。宇・真・胃!
二日目
午前中、認知症と慢性腎不全とALSのターミナルケアに関して学び
午後は、秋山正子さんのお話を聞きました。
「白衣を脱いで町に出よう」~マギーズ東京のこころみ~
医療者、専門職だけが頑張るのではなく、地域の福祉力、元気力をどのよう醸成するかを問いかけてきた二日間だったような気がします。とっても良い会でした。
来年は、北海道十勝だそうです。
福岡空港でイカのお刺身を食べ、飛行機の中でこのブログを書いています。
千倉へ帰還したのが午後9時過ぎ。また、明日から頑張ろう。
おやすみなさい。
1月が終った。。。12分の一が終った。本日から2月となります。
本格始動です。今年の私のキャッチフレーズ「ハチャメチャな一年」です。
ハチャメチャとは、破壊的なことではないです。挑戦、建設的破壊も含めた意味です。
1月27日(金)私ども笑顔グループのスタッフを集めて、私の思いを吠えまくりました。
亀田メディカルセンターの研修医から「先生の医療の理念、実践は素晴らしい。
でも、現場のスタッフ全員が理解しているかどうかわからないので、先生の思いを伝えた方が良い!」
という有難い助言を頂いて、毎年1月に吠え続けています。
最初の頃の理事長訓話は1時間ほどで終っていたと思いますが、最近は1時間半ほど話をし、今年は何と2時間も話しをしました。
毎年、訓話時間が延びております。
来年は徹夜でお話をしようかと思います。
私、いい話をしたと思います。気合いを入れて話をしたと思います。その結果、2時間。
でも、やり過ぎたと反省しております。
人が話を聞くのも1時間ほど、長くて1時間ほどが限界だと思います。
ですので、来年は、1時間ぐらいに持っていくようにします。
もし、それでも、2時間話しをするとすれば、2回に分けよう。
スタッフに伝えたこと
・給料を上げるぞ!
・1%だけ誰かのために生き、1%だけ毎日工夫し続け、
1%の積み重ねが幸せに通じる
・私語厳禁
・挨拶、返事はハッキリと、明るく、優しく
さて、今年の目標
笑顔グループとしては
1.幸せを求めて、ハチャメチャな一年へ
2.幸せを求めて、何でもチャレンジ
3.デンマークへ視察研修
4.勉強会へ積極的に参加
5.グループ内の人事交流を、より強くシャッフル
6.より無色透明のゴチャマゼケアへ
7.地域の中へ、行政の中へ
8.院長交代? エッ!
個人的には
1.「残された人生、そう多くはないかもしれない」と思い、生きる
2.シンプルに生きる、丁寧に生きる
3.質の高い医療を求める
4.本を読む、英語の勉強をする
5.ハチャメチャにチャレンジする
6.健康に注意し、運動し、飲み過ぎない
(7.スピードを出しすぎない)
ということを決めました。
昨年の目標で未遂となっている体重72kgも隠れ目標です。
とにかく人生の最大の目標は、お金持ちになることでも、便利になることでもないです。
「幸せ」になること!!です。
人生を振り返った時に、共に一緒に働いてきたことを誇りに思えるような
100年経っても繁栄している笑顔グループになれるようトップとして頑張ろうと思います。
とは言うものの、気合いだけで生きている私
右手に論語、左手にソロバンを持って医療活動しています。
経営者ではないけど経営責任者です。経営などわからない者が経営しています。
そんな頼りない私をスタッフが支えてくれています。
「一人の百歩」から「百人の一歩」モードへ
笑顔グループは、進化 = 深化 = 真価 = 神化しています。