Merry Christmas!
私はサンタさんの親戚のヘータさん!
耳偏に心と書いた漢字を読めない季節でもあります。
みなさんはサンタさんに会ったことがありますか?
私はサンタさんに会ったことは残念なことにありません。サンタさんになっちゃうことは毎年のことです。でも、絶対に、サンタさんはいます!みなさんの心の中で生きているはず。
在宅で診させて頂いている患者さんに心ばかりのものをプレゼントしています。
今年は座布団。予算が一人300円だったか、500円だったか、スタッフが毎年忘れずに準備をしてくれます。「でっかい煎餅と銀座四丁目交差点の詰め合わせですよ!」とプレゼントしました。
秋から冬本番。少し振り返ってみます。
冬至でカボチャを食べ、柚子風呂に入り、ハロウィンは10月末に何故カボチャ?と思いつつ2022年もののイタリアン・ヌーヴォを飲みました。11月第3木曜日にはフランス。ヌーヴォが解禁。青木屋さんのおかげでフライング・テイスティング、ボッチ呑みしました。
ハロウィンとクリスマスの間を埋めるようにブラックフライデーというわけのわからないイベントが生まれつつあります。私はトイレットペーパーを購入してみました。私はお尻が弱いので肛門に優しいものをという思いでしたが、チョッと固くて今一つのものでした。
11月は新型コロナワクチンとインフルエンザワクチンを接種しまくりました。
12月は2024年度から開設する南房総市地域包括支援センター「笑顔」の準備で忙しくなっております。とはいうものの、スタッフがその準備をして、私がOKサインを出すぐらいですが。
中学2年生の末娘のココロが、未来を考え始めています。バレエと勉強の両立をどのようにするか、パワーポイントでプレゼンテーションしてもらいました。そして、高校受験に関してどの位の学力があるのかオープン試験を受けてみました。成績は結構良く、私の倍でした。
Christmas、地元のケーキ屋さんセーベのチョコケーキを食べました。ご主人様はしっとりとして美味いと、私はもう少し生クリームが巻き巻きになっていると良いなと思いました。モモ唐揚げはアオキストアーが旨い。焼き鳥のタレがかかり、普通の1/2~1/3のお値段で最幸!
さあ、2023年もあと少し。
いつものように年賀状の準備がゼロ。
どうしよう。。。
もっと、もっと、速く飛べるはず。
もっと、もっと、頑張れるはず。
もっと、もっと、頑張らなくっちゃ。
速く飛ぶことができるツバメが独り言を言う
「こんな空気さえなければ、もっと、もっと、速く飛べるはず。」
でも、空気があるから飛ぶことができるのです。
Facebookで、面白い文章を見つけました。
佐賀県唐津市のミッチャン(佐伯美智子さん)、看多機むく、小多機むくを運営。
変わった自由人です。夢を求め、実践することが大切なのでしょう。
私が新人の頃のお話。
一人ポツンと離れた席にいる入居者さん。
周りの物を投げたり、唾を吐いたり
大きな声を出したり
人を叩いたり噛んだりしてしまう方だった。
当時のリーダーが
「ここに来る前は精神病院にいて、薬を沢山飲んでてボーっと反応も何もなかった。今、薬を抜いてる最中で自発的に動くようになってきた所なんだよ。」
と色々教えて下さった。
私はこれを聞いて、この方の事をもっと知りたくなってとにかく沢山関わりたいと思った。
当時のリーダーに伝えると、私の想いを聞いてくれて任せてくれた。
何言ってるか全然分からないし、私の言ってる事分かってるのかどうかも分からないし、何回も叩かれるし頭からご飯かけられるしお茶投げられるし大変だったけど
出来るだけ隣に居てたくさん話をした。
(リクライニング車椅子使用で自分から移動は困難な方なので、避ける事は可能だったし力もそんなに強くなかった。)
色んな研修会にいったり、本を読んだり
何か出来る事はないかと必死だった。
シーティングの勉強会もいって、椅子に座れるようクッション等を作った。
椅子に座ると姿勢がとても良く、手掴みだがご飯を自分で食べる時もあった。
少しずつだが、何を言ってるか聞き取れるようになってきて
何となくだが会話も出来ているような気もしてきた。
暴力等も減ってきたので、皆の近くに席替えした。
小柄なおばあちゃんだったので、他の入居者さんも気にかけて声をかけたりしていて
私は本当に嬉しかった。
そんな時、ご家族様が私に入所前の話をしてくれた。
在宅でずっと介護していたのだが
家中の物を集めたり、違う場所で排泄したり
泥棒扱いされたり、暴力を振るわれたり
一人で外へ出て何度も警察沙汰になったり等で
ご家族様もキツい言葉を言ったり叩いてしまったこともあったと。
もう疲れ果ててしまって、そしたら精神病院に入院になって。
すると、あっという間に目はトロン。動く事も話す事すらもなくなったんだと。
正直、もう死んで欲しいと思ってしまう程追い詰められていたけど
いざそんな姿を見ると、自分を責めてしまったと。
ご家族様は泣きながら話して下さった。
新人の私には何も言葉が出てこなかったけど
この出来事が私を大きく変えた。
そんな頃、人事異動があり
リーダーも職員もゴソッと変わってしまった。
「手掴みでご飯食べるなんて汚い!」「暴力なんて許せない!」
そんな声が多く上がった。
私は、必死に色々伝えてみたが
新人の感情論なんて全然届かなかった。
移乗の際に叩かれる可能性がある為椅子移乗もしなくなり、食事も介助になった。
そしてとうとう、抜いていた精神薬が再び処方される事となってしまった…。
私は悔しくて悔しくて
(絶対にリーダーになってやる)
と決心したのだった。
そしてリーダーとなり、今に至る。
この時の悔しさを絶対に忘れない。
師走、私はもっと、もっと、走り回ります。
車の運転をしながら、涙が流れてしまう。
1997年、死んではならない尊敬する母が亡くなった。それ以来。
千倉で唯一の親戚である叔母・松永吟子が、88歳でシャボン玉が壊れるように亡くなった。
母が亡くなって10年以上、母のことを話すと涙が出ていました。
20年経って、どうにか母のことを話すことができるようになりました。
今でも、吟子おばさんと母が重なり合い、悲しくて涙が出てしまいます。
私の父の世代は異母兄弟がたくさんいて、長崎市が本拠地で、互いに仲が良かったのです。
これは、私のジイちゃんがだらしなくて、おバアちゃん二人が賢かったのでしょう。そんな怪しげな松永家に嫁入りした吟子さんは、やっぱり変わっていたのでしょう。
吟子さんの夫は和郎、本妻側の次男。父・春二は二号さん側の長男。
父・春二が診療所を開業した際、事務長として和郎叔父が手伝いに長崎から千倉へ来たのです。
吟子おばさんも、東京を通り越して長崎から遠い千倉まで移り住み50年以上が経ちました。
私もご主人様も、共に父、母が亡くなっております。つまり、私たちの娘ユメ、ココロにとって本当のおジイちゃん、おバアちゃんはいないのです。しかし、吟子さんがユメとココロのおバアちゃんとなり、人としての優しさを教えて頂きました。
私にこっぴどく叱られしょんぼりしていた娘たちを元気づけてくれました。
学校帰りに松永醫院に戻ってきた娘たちに、美味しいお弁当を作り食べさせてくれました。
私もご主人様も用事があり子供たちをみることができない時には、子供たちを守ってくれました。
おジイちゃんとおバアちゃんの存在意義って、生きることで精一杯の親に代わって孫に生き方を伝えることだと思います。おジイちゃんからは真面目に生きること、正義、強さを教えていただきます。おバアちゃんからは優しさ、温もりを教えていただくことだと思います。
吟子おばさんの孫、ヒナちゃん、コウイチくんにも優しさを伝えました。美味しいものの作り方なども教え伝え、プチグルメにもなっているようです。おバアちゃんっ子だったヒナちゃん、コウイチくん、優しい人となり、吟子おばさんの最期も頑張って看取りました。
吟子おばさん、亡くなる1か月までスタッフとして働いておりました。88歳、最高齢です。
金庫番として事務方をしており、お金を扱うだけにボケてもいませんでした。私は人生最後ボケるものと言っていますが、ボケずに逝く吟子さんは素晴らしいです。アッパレです。
吟子おばさんが進行がんを患っていることが診断されたのが今年5月。私は治療を強く勧めましたが、「私は、普通に家で過ごす」と言い積極的治療を拒否しました。もう一度病状を評価するために一番信頼している医師に紹介しましたが、やはり「普通に生きる」と拒否。
転移した肝臓の腫瘍の大きさが5カ月で5cm⇒10cmと倍に、体積にすると8倍になります。血液検査のデータもドンドン異常値が高くなりました。でも、吟子おばさんは元気、仕事で松永醫院に通っていました。一見すると健康なおバアちゃんに見えていたでしょう。
11月5日(日)のココロのバレエ発表会も楽しみにして約4時間の舞台を観覧し、亡くなる3日前までトイレに行っていました。そして、近所の友人たちにはお別れの言葉を残し、家族に対しては感謝の言葉をたくさん伝えました。
東京に住む孫ヒナちゃん、コウイチくんと家族が吟子おばさんの家に泊まり込み、不眠不休で最期の親孝行、おバアちゃん孝行をしました。夜中にトイレに行って戻れなくなった吟子さんを皆でベッドまで運んだことも思い出になるでしょう。みんな頑張りました。
11月24日の夕、みんながみている前で息がフ~っと止まりました。
宙にとぶシャボン玉が割れて消えていくように、88年間の人生を走り抜けました。
良い最期だったと思います。満足死を達成したと思います。
吟子おばさん、本当にありがとうございました。