~ 理事長のブログ ~

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2023年03月27日(月)

Kさん

今は閉校してしまった忽戸(こっと)小学校の運動会、午前のプログラムが終わり昼食の時間になったけど、私はボォ~っと佇んでいました。みんなが弁当を開いて食べ始めているのに、私はただボォ~っと。そんな私の目の前に、突然、お稲荷さんが出てきたのです。

私の父は外科医の開業医、母は看護師。外来があり、病棟もあり、入院患者さんの食事の準備もあり、父、母はとっても忙しく働いていました。そんな中、私の運動会で母は弁当の準備をしているのですが、午前12時の弁当タイムに間に合いません。

困ったときに出てくる料理、有難いです。美味しいです。
そんな時にいつも聞いていたのが「Kさん」という言葉です。Kさんから頂いたものという言葉はよく聞くものの、私はそのKさんの顔をよく覚えていませんでした。



25年以上前、私が千倉に戻り孤軍奮闘している時に、やはり料理をいただきました。
あっ、この人がKさんなんだ。名前と顔が一致したのです。Kさんは、ご夫婦。声が大きく人情味あふれる夫と料理がおいしく優しい妻との夫婦二人暮らしをしていました。

夫のKさんは、元漁師。大きな声だから嘘を言うとバレちゃうからと言い、私を信じて通院していただきました。肺気腫で在宅酸素療法を導入しており、最期は自宅で迎えました。
良い最期だったと思います。今でも大きな声で笑うKさんを思い出します。私の千倉の父です。

妻のKさん、母の大親友でした。母は朝から深夜まで働きまくっていました。母は自転車にも乗れませんでしたので、いつも小走りで買い物に行き、歩いている姿を見たことがないと言われていました。Kさんは、友達を作る暇もなかった母の数少ない友達です。

大好きな母が亡くなった後は、Kさんが私のことをよく面倒をみていただきました。
そして、ボランティア活動もよくしており、私に人としての生き方を伝えいただきました。
母が亡くなった後の、千倉の母です。



そんなKさんも歳を取り、自宅での生活も大変となり、老人保健施設・夢くらぶへ入所していました。緑内障で眼科受診が必要でしたので、時々子供たちと自宅へ帰りました。
次第に視力障害も進行し、寝ている時間も増えて、食事量も減りました。

水分も食事もほとんど摂ることができなくなり、衰弱が進行し、残された時間も少なくなりました。「最期はどこで過ごしたいですか?自宅ですか、夢くらぶですか?」という質問に「どちらでも構わない」と答えました。

Kさんには親孝行な子供が3人います。3人の子供たちは自宅へ帰ることを希望し、私たちもそれが良いと考え、この週末に自宅へ帰りました。自宅では子供たちから最高の親孝行を受け、親戚、友人が集まり思い出話をし、大切な残された時間を過ごされています。

今週は訪問入浴サービスを受ける予定になっています。親孝行の子供たちが、顔を拭いてあげて、手を洗ってあげて、足の指の間までも洗ってあげることになるでしょう。そして、細く、小さくなった母の体を見て、大切な命を看取る覚悟を持つことになると思います。

生まれてきた以上、必ず亡くなります。今の時代、病院のコンクリートに隠されてその最期がよく見えません。死ぬことが不安になります。町医者である私のミッションは、良い最期を迎えていただくこと。それが、お世話になったKさんへの恩返しだと考えています。


2023年03月23日(木)

2023年3月

3月、いろいろなことがありました。いろいろなことを考えさせられました。
人は、いろいろな経験から今の自分自身にたどり着き、今の積み重ねで未来が広がります。
より良い人生を歩みたい、より良い地域を創りたい、より良い未来を創りたいと思います。



3月11日、東日本大震災が起きて12年が経ちます。私たちに教えてくれたことは
大切なことは困らないとわからないこと
何もないこと、普通の毎日に感謝すること

あと、他人のことを自分のこととして思うことです。忘れないことです。
どこかで必ず災害が生まれます。私たちの身代わりになって、被災するのです。
私のメールの最後に「誰かの犠牲の上で、私たちの命は守られている。だから支える。」と。



初めて写真撮影というものを体験しました。人生において夢と思っていたことにチャレンジするためです。今年の6月ごろに私の夢がお披露目になるでしょう。楽しみです。
人偏に夢と書いて儚いと書きますが、はかないと読むことに違和感を覚えます。



夢という意味は、3つあります。1つ目は医学的な夢。2つ目は儚い夢。3つ目は人生の目標。
当然、3つ目の夢を追い求めることが大切なことです。皆さんも夢を持っていますか。夢を持っていない人も、夢を求めようとしていますか。まさか、人の夢を茶化していませんか。

開業医にとって60歳代が一番脂の乗っている時期だよと尊敬する長繩先生から助言をいただき、ホームタウンである千倉に集中するために25年以上勤めていた東京の病院を辞めました。
現在、千倉オンリーです。開業医にとって大切なLast 10years、その3分の1が終わりました。



節酒、進んでいます。呑むたびに、ボトルを開けてボロボロになって沈んでいました。
今、週末など休みになる時にボトルを半分ほど呑みます。将にスピリッツを入れるのです。
睡眠の質もよくなりました。いろいろなことをする時間も増えました。有難いです。

ジョギングも、サンキューの3.9Kmから5Kmへ延び、時に10Km近くを走っています。
外来が終わった後に走り、走り終わった後に料理を作り、バレエレッスン終わった娘たちと夕食を摂る。なんとなく幸せを感じております。その結果の体重も、次第に減っているはず。

あと、WBCでのサムライJapan、世界一おめでとう。みんな一緒に感動しました。有難う。


2023年03月17日(金)

医者になれたんだってねぇ

私が千倉へ戻った後、千倉中学校の学年同窓会がありました。40歳ごろだったでしょうか。
ある先生から、「ヘ~タ、お前医者になれたんだったねぇ。まじめにやれよ。。。」と助言をいただきました。これが、私の中学時代の社会的評価だったのでしょう。

とにかく怖くて、暴君の父親の管理の下で、何をするのではなく指示されたことをただやる振りをしただけの空虚な中学時代でした。学校から出された宿題、やりませんでした。本、ディスレクシアという文字入力が欠落する障害があるため、買うだけで読みませんでした。所謂、積読です。

将来の夢など考えず、机に向かって世界地図を広げ、将来どの国に行って研究しようかなどと空想をしているばかり。何故か、ノーベル賞を取るつもりでした。そんな、大きな夢を持っているも、夢と現状をいかに結びつけるか努力もせず、何も考えていませんでした。

中学校時代の成績、そんなに良くありませんでした。試験前日、母の作る夜鍋ウドンが出てくるのが午後10時頃ですので、それまでは頑張って起きておいて、食べ終わると寝ました。卓球部に入っていましたが、だいたいが2位、決勝戦で誰かに負けていました。

中学校時代の思い出はほとんど無く、ただ呼吸をしていただけでした。
負けても悔しがらず、努力もせず、本も読まず、いったい私は何をしていたのでしょうか。
ただ、恋焦がれて電話した懐かしい公衆電話、今でも残って建っております。

学級長にも選ばれず、キャプテンにも選ばれず、卒業アルバムも紛失し、空虚な中学時代を送っていました。今振り返って見つめなおすと、大した学業成績でもなく、目立った中学校のクラブ活動もしなかった私が、たしかに医者になれたことは不思議でたまりません。

でもね、この後の私はスゴイんですよ。
時間は少々かかりましたが、日本一の成績を取ったりと、負けず嫌いになっています。
医者になってからは、皆に支えられながら、人間的に成長しているような気がします。


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