一年で一番好きな季節は?と聞かれたら
スイカの種をピッピッと飛ばしていた少年平太だったころは、「もちろん夏!」と言っていました。夏休みで学校も休み、毎日海に行けて、ただボぉ~っと呼吸すればよいから。
一年で一番苦手な季節は?と聞かれたら
東京に出て行ってからは、「やっぱり夏」と答えるでしょう。アスファルトの照り返し、風通しの悪いビルの谷間、ガンガン唸っている室外機からの熱風。東京砂漠です。
6月なのに梅雨明け?と思わせる晴れの日が続いています。地球温暖化現象でしょう。
千倉は海洋気候で、昼間は海から吹く風で木陰に入れば涼やかなはずが。。。
隣の鴨川では最高気温が35度を超えて猛暑日。地球が壊れて来ています。
太陽が高いのが午後0時、気温が高いのが午後2時。気温に現れるのが2時間遅れます。
陽が一番長いのは夏至、気温が高くなるのは8月。季節に現れるのは2カ月遅れます。
今の地球状態が気候に現れるのは約10年のタイムラグになります。
この10年で地球温暖化は進んでいますので、これから10年は今まで以上に異常気象がドンドン起こるでしょう。100年に一度、いや1000年に一度の災害が、毎年どこかで起きるでしょう。天災というより人災と言った方が良いでしょう。
人間は強欲で、アホだと思う。優しい人間をそうさせるのは、政治が悪いからだろう。
地球温暖化を止められないのは、政治が悪いから。戦争が止められない、戦争に向かわせようとするのは政治が悪いから。そんな悪い政治家を選ぶのは、国民がアホだから。
日本で唯一地上戦となった沖縄、約24万人もの尊い命が犠牲になりました。国民を守るはずの兵隊が、防空壕に逃げ込んだ女子供達を外に出させて自分達だけ生き延びようとする戦争。「平和をつかみたい、ずっとポケットに」、沖縄の女の子が語っております。
「へいわをつかみたい ずっとポケットに」小学2年生が"平和の詩"沖縄『慰霊の日』(2022年6月23日) - YouTube
治家が国の威信をかけて戦争を起こし、激戦地に行かずに攻撃の指揮をしまくり、犠牲になるのは国民ばかり。日本国憲法は暴走する国家が戦争へ流れていくことを規制する上位法律。今の政治家に憲法を変えさせるのは危険です。改憲阻止するために選挙へ行こう。
何度も死にかけては生きかえってきたバアちゃんが、とうとう枯れて、土に戻られました。
フェニックスよっちゃんです。嫁が息子である夫に「自宅で看取るよ!」と言った翌日に、ホッとしたのか、一口の水を飲み、最後の呼吸をしたのでした。静かな最期でした。
「高齢者は日中ベッドで弱ります。」と私は常に言うようにしています。
だから、高齢者が行くと具合が悪くなるところはベッドしかない病院。
病院は命が助かって、自宅に戻って来るために我慢しに行く所ですよと言っています。
よっちゃんは、入院すると独り起き上がることも、寝返りすることもできなく、意思の疎通もできない要介護5の状態で退院し、私どもの老健「夢くらぶ」で在宅復帰のリハビリが開始となります。約2か月のリハビリ合宿の結果、どうにか伝い歩きできる程に回復します。
要介護5⇒要介護2に復活するフェニックスよっちゃんは、昼間ベッドが大好きで、夜はベッド側に置いてあるポータブルトイレをまたいでトイレへ行くことが大好きでした。
嫁は、転倒・骨折を心配しベッド側で寝ていましたが、夜はちゃんと寝ようという私の助言を聞いて隣室で寝るようにしていました。その嫁の言い癖は、「大変、大変、とても家では看れない!」。そう言いながら、老人ホームへ入所をたのみながら、自宅で看ていました。
よっちゃん、松永醫院に独りで通院していたころは「嫁が私の財布を盗んでいる!」と言っていました。でも、私が在宅医療として自宅に訪問診療で伺うと居間のテーブルで干し芋を作り、嫁に「ありがとう」という言葉を言っていました。
でも嫁は「大変、大変、とても家では看れない!」と言いながら、自宅で看ていました。
嫁は、何かあったら、ほっとけない、可愛そうと言いながら、ベッド側で寝ていました。
家で看取ると覚悟すれば楽になるよと言っても、嫁は家では看れないと言っていました。
よっちゃんは、家で過ごし、家で死にたいと言っていました。
時に夢くらぶへショートステイ、日頃はデイサービスあそぼへ通い、訪問看護、ヘルパーが自宅へ伺って嫁をサポートしていました。笑顔グループのフルスペックサービス提供です。
何度も死んでは生き返って元気になったよっちゃんは、次第にトイレに行けなくなり、食事もとらなくなりました。ゴールが見えたかなとなった頃、嫁がやっと自分から「ここまで来たのだから、家で看取る!」と言い、覚悟を決めたのでした。
よっちゃん、良い最期だったと思います。亡くなった後の嫁さんの涙ある笑顔を思い出します。看取った後に知ったことなのですが、よっちゃんが若くて元気な頃、チョイ問題のある嫁姑関係であることが地域で噂になっていたそうです。なるほどと思いました。
私の仕事、永遠にある嫁姑問題を人生の和解に持って行くことかもしれません。
ヨシエさんは、医者嫌いでした。最後の最期まで医者嫌いでした。
最期は自分で選んで死を選び、食事を拒否し、枯れて衰弱して行きました。
「家に帰ったら私が診る!」っと言っていたのに。。。無念。
社会福祉法人「おかげさま」でグループホーム等を作ろうとしていた時、ヨシエさんは地域にとってためになるところを作るのだから協力しようと他の地主さんに働きかけてくれました。納涼祭などの行事があるごと、他の地域の人を誘って参加して手伝ってくれました。
ヨシエさん、名前は知りませんでしたが、顔が派手で目立つので顔だけは覚えていました。
地域のまとめ役にもなっていましたし、車を運転して友達を食事会へ誘ったりと地域の女番長的な存在で、みんなから頼られ、慕われていたそうです。
来春私たちは新しいサービスを立ち上げる予定になっていますが、新しいスタッフも増えるので新たなる駐車場の確保が必要になります。後からわかったことですが、そのための土地の提供も協力してくれると申し出てくれていたとのことでした。有難いです。
ある日、女友達で美味しい鰻を食べようと集まるも、ヨシエさんが来ていませんでした。心配した友人が自宅へ伺うと倒れていて、救急搬送となりました。一命はとり止めたものの、麻痺と嚥下障害が残り、リハビリ目的で老人保健施設夢くらぶへ入所となりました。
ヨシエさん、私たちのために協力しようとしていたことがわかったので、恩返しの意味合いもあり早目の転所と気合を入れてリハビリを試みました。ベッドから車イスに移乗し、声掛けをして刺激し、立ったり座ったりの起立訓練をし、次第に視点が合い笑顔が出てきました。
問題は、食べないこと、飲まないこと。
食べられない、飲めないではなく、食べようとしない、飲もうとしないこと。
東京の息子さんが好きな物を持って来ると、少しばかり食べていました。食べられるのです。
優しいスタッフ、優秀なSTという食べるリハのプロ二人、管理栄養士、看護師、施設長であるご主人様、みんなが関わり頑張りました。食欲が出て、元気になる魔法の薬プレドニンを服用し始めたら少しばかり食べ始めたのです。でも、その薬さえも途中で服薬拒否。。。
それならば、東京の息子さんと自宅へ外出し、地域の友人たちとお茶を飲み、お話をすればきっと食べ始める。そお考え、未来を創る日・水曜日に実行しようと考えていました。
その直前、火曜日の早朝、フッと風が吹き、魂が飛び、命が土に戻られて行きました。
命が流れて行った。。。
亡くなられることを、私は「土に戻られる」と言っています。
生命は土から生まれ、水、陽、風により育まれ、土に戻って行きます。
笑顔グループのロゴマーク、命輝きマークの中心のいのちの色はオレンジ色となっていますが、本当は大地の色・土色です。命は、土から生まれ、土に戻られる。
ちなみに、命輝きマークの上のチョンチョンは赤と黄色と青色、太陽とお花と海の色です。
大地は命の土台であり、畑仕事をすることは大地から元気をお裾分けしていただくことになります。南房総千倉のおジイちゃんは、海仕事が大変になると陸に上がって来ておバアちゃんと合流します。おバアちゃんと共に畑仕事を始め、二人で旬の野菜を作ります。
畑には、旬の野菜と都会で頑張っている子供たち孫からの「ありがとう」が埋まっています。
小銭はめったに落ちていません。台風が来れば被害に会い、農作物は全滅となります。
でも、その「ありがとう」という言葉を拾うために畑仕事が再び始まるのです。
「ありがとう」という言葉は、生きがいという言葉にもなるでしょう。
そして、旬の野菜の横には元気が埋まっています。その元気を拾って、おジイちゃん、オバアちゃんは元気になっているのです。
畑に行くためには、外出する準備が必要。泥だらけになるので、家に帰ってくれば後始末で大変となります。何を作付けにするか、肥料を何にしてどのくらい与えるか、できた野菜を誰に送るか考えます。つまり、体と頭のリハビリになるのです。
よく、歳を取って足腰が弱くなってきたから畑仕事を止めてしまう高齢者がいます。畑を止めてしまうと、一気に足腰が弱りボケて行きます。「少しでもよいからリハビリ畑へ行って、元気を拾って下さい。」と本人、ご家族に伝えています。畑に行くこと自体がリハビリなのです。
畑に行って転んで大腿骨を折ったら大変だと心配する人がいます。そんな時、「畑は大地のクッション、大丈夫!折れません。」と断言します。そして、「もし折れたら、手術をしてボンドとナットでつなげれば、すぐに元通り!」と伝えています。
リスクより、リハビリ畑へ行って、元気、いのちの輝きを選ぼう!
安房医師会理事としての医師会活動を休止することにしました。
4年前、松永醫院という点での医療活動の幅を広げ、もっと地域に広がりを求め、行政、市民と共に面でのボトムアップを期待して安房医師会理事に参画しました。
結果は、思っていた医師会活動が全くできなかった・・・と反省しています。
コロナ禍で対面での活動ができなかったという理由も多少はありますが、自分の能力の限界なのですが流れてくる膨大な情報を処理できなかったことが大きな理由となります。
私は、文字からの入力が非常に苦手です。ディスレクシアという障害を持っているため、文字入力の能力が低く、流れてくる膨大な文章を処理することができませんでした。大切な情報、どうでも良い情報を選別することがヘタで、スタートから躓きがありました。
あと、時間が足りなかった。。。診察が始まると、外来、検査、在宅などやることが一杯で、あ~っという間に一日が終わります。メールチェックは昼食をとりながら行い、空いた隙間に膨大な医師会情報を得ることは困難でした。他の理事の先生方は、どのようにしているのだろう。
「置かれた場所で咲きなさい」精神が足りなかった。猛省しております。
在宅ケアを深く広げたいという思いで参加しましたが、置かれたところは学校保健。充分にやりがいのある、未来を創ることができる分野なのに、花を咲かせることができませんでした。
安房医師会の医師会長は原徹先生、優秀な先生です。私はあまり医師を誉めることはないのですが、原先生は情熱と実行力を兼ね備え、頭の回転が速く、バランス良い判断をし、地域のために自己犠牲を払って来た医師会長です。山っ気モリモリ、男気のある先生です。
そんな、原先生の力になれなかったのが残念です。
もう一回理事としてチャレンジしても同じ間違いを繰り返すだろうと考え、身を引きます。
本日、安房医師会総会が開かれます。任期満了、お世話になりました。