COVID-19緊急時値宣言が解除となりました。明らかに第4波が来ています。
そんな現実がこの週末に感じられ、この後1週後、2週後の感染状況に現れて来るでしょう。
感染ピークが医療限界を超えないようにハンマーでたたき、犠牲者を少なくしなければなりません。
娘が混んだ公共交通機関を用いることを避けるために、金曜日の夜松永醫院の外来が終わった後に車で迎えに行きました。土日のアクアライン渋滞はひどいのですが、金曜日の夜にも関わらず、いつも以上に大渋滞になっていました。普通の倍、3時間ほどかかりました。
渋滞する車のナンバーを見ると東京ナンバーが多く、金曜日の夜にもかかわらず多数の都会からの行楽客が房総半島に来ていることがうかがえました。パンツのゴムが緩んでいる状態というよりも、パンツのゴムが切れちゃった状態でしょう。交通渋滞は人生の無駄使い。
本日は土曜日、3月いっぱいにまでしか使えない南房総市のお食事クーポンが残っていましたので、和田町にある鰻屋さん「新都」へうな重を食べに行きました。人生最後の晩餐、卵かけご飯かうなタレ丼と考えていましたが、やっぱり、うな重にします。最幸!口福!
新都(しんみやこ)のうな重は、見た目は黒で味が濃そうに見えながらも意外とアッサリ。
と私の脳にインプットされていましたが、久しぶりに食べると普通の色でした。若料理長は金沢の料亭で修業をしてきており、本当は鰻だけでなくコース料理がおすすめです。
→ うなぎ 新都
桜の季節、東京は今が満開。房総半島の先っちょは、これからが桜の季節。
大学の同級生で、卓球のダブルスを組んでいた友人と、浅草あたりで昼間から酒を飲み、隅田川沿いの桜を愛で、夜再び酒を飲み交わすのが毎年の恒例でした。高島くん、元気?
桜の花、木の下の方から開花してくるのでしょうか。
松永醫院のデイケアから見た外景色、これからが桜本番。
桜を見ると、日本人で良かったと思います。
桜、サクラ、さくら、ちくら、千倉!
3月15日、例年であれば確定申告締切日。山陽新幹線開通の日。
そして、私の誕生日です。昨年、還暦を迎えたので、今年は26歳になることになります。
精神的には歳を取らないどころか若返っているような気がします。しかし、身体は確実に歳を取ります。
50歳の時は胆嚢に13㎜のポリープがあり、形的にはコレステロールポリープで良性ポリープです。しかし、良性であるか悪性であるかの目安が10㎜であり、毎年少しずつ大きくなっており、半年ごとに精密検査をするのも面倒くさいと思いました。
あと、松永醫院の移転、リニューアルと将来に向けたプロジェクトを開始するときでしたので、胆嚢を取ってしまえば癌化する心配をしなくてすむ。ということで人生において初めての腹腔鏡下胆嚢切除術を亀田メディカルセンターで行いました。
全身麻酔に絶対に墜ちないと「いち、に、さん、・・・」と数えているうちに気が付くと膀胱に管がつながれた状態でベッドに横たわっていました。麻酔導入時の気管内挿管が難しく、麻酔部長が気管支鏡を用いて管を挿入したそうです。「呼吸が止まったらすぐに来てね。」という助言を有難く頂きました。
全室オーシャンビューの個室、家族も24時間見舞うことができ、場合によっては泊ることもできる亀田総合病院Kタワーの素晴らしさを堪能しました。おもてなしがホスピタリティーという言葉になることに納得します。私もHタワーを作り、「ヘイタワー」と呼ぼう。
60歳で白内障の手術。局所麻酔下で右目にメス、針が襲って来るのを見て耐えることができるのだろうかと思っていました。瞬きするのをどう防ぐのかなと思っていました。開眼器を用いて瞬きを防ぎ、眺めるよう指示を受けた光を見ていると他の風景が見えません。
術後感染が怖いので抗生剤の点眼薬を術前からつけ、内服薬は自分の判断で服用しました、
術後は、3時間ごとの点眼薬と一日3回の抗生剤点眼薬をつけました。関節内とか目に感染を起こすと厄介なことになります。血液が届いていないので免疫機能が働き難いためです。
手術日は入浴禁止、翌日から首から下のシャワー浴はOK。顔が洗えないことは辛いです。
洗髪は行きつけのチョッキンハウスで2回洗っていただきました。
でも、昨日、術後初めて自分で洗髪しました。顔も洗いました。当たり前が有難く感じます。
3月15日、昨年は朝のミーティングで赤いチャンチャンコと赤いシャツと赤いランニングパンツを突然プレゼントしていただきました。赤が好きな私が、赤だらけになりました。
早速、赤いプリウスに乗ってお江戸に向かい、赤ラベルで皇居一周5Kmを走りました。
今年は皇居2周を走るつもりです。白内障手術後なので汗をかくスポーツは禁止されていますが、術後6日目なのでそろそろ軽く走り始めるつもりです。いつものサンキュージョギング、3.9Kmをゆっくり走りませう。
3月、私の誕生月。日ごろ頑張っている自分自身にご褒美として箱根宮ノ下にあるおもてなしの宿・箱根吟遊に泊まりに行きます。温泉に入り、美味しい料理を食べて、チェックアウト時に来年のお泊りの予約をとる。これが20年続きました。さすがに、今年はキャンセル。
箱根吟遊‐Spa resort Ryokan HakoneGinyu【公式】
今年はStay Home。大好きな我が家で、家族一緒になり、美味しい料理を作り堪能しました。私はいつものローストビーフを、今回は62度の低温で5時間かけて作りました。ユメとココロはガバオを作ってくれたのですが、これがまた美味しく、口福になりました。
青木屋からの美味しいワインを飲みながら、ご主人様は浜松北高校の同窓生が作る浜松ビールを飲みながら、楽しいひと時を過ごしました。。。となるところ、私、切れました。ユメを怒鳴りつけました。人生を変えるかもしれない大切なレポートをいい加減に扱ったからです。
ユメ、朝5時過ぎに空気の入っていない自転車をこぎ、東京の高校に向かいました。
ユメ、今、壁にぶつかっているようです。
ユメ、賢くて優しい人間になり、幸せになろうね。そのためには、チャレンジ。
怒ったらダメ。怒ったらロクでもないことが起こる。っと考えている私が怒ってしまった。
ユメはまだ未熟な娘なのだから、高くて険しい壁を伴に一緒に登り、その壁を乗り越えられるよう引っ張り上げるのが父親の私の仕事だと思います。
3月15日、私の誕生日。まだ、特にプレゼントをもらっていません。
でも、おそらく、この父親の気づきが娘から私への誕生日プレゼントになるのでしょう。
ユメ、もうそんなに叱らないからね。
3月11日、あの日から10年が経ちました。テレビに映る風景を見ると、かつて人々が生活していたみそ汁の匂いのする街並みが、高速道路のような沿岸道路とかさ上げされた空き地に変わり人々の生活の匂いのしない無機質な風景に変わっています。
この10年、早いものです。時が止まっているのか、時が経っているのか、それとも時が逆戻りしているのか、複雑な思いを持ちます。私のメールの最後に、【誰かの犠牲の上で、私たちのいのちは守られている だから支える】というメッセージを入れてあります。
地球のどこかで災害が必ず起きています。どこかで、私たちの身代わりになって被災され、苦しんでいる人たちがいます。東北地方の人たちが、私たちのいのちの身代わりになっていただき、地震と津波と原発の被害にあいました。申し訳ない。だから支えますね、これからも。
石巻へ何度か支援に行きました。松永醫院の土曜日の外来をご主人様にお願いし、金曜日の夜千倉を出発し、土曜日の早朝に石巻に到着。土曜日と日曜日の午前中にボランティアをしました。日曜日の午後に千倉に戻るのですが、ボランティア渋滞があったことを思い出します。
長女のユメが大好きな卵かけご飯を食べさせたいと言って、一家全員で無洗米と水と卵と野菜を持って行き、鎌田のだし醤油をかけながら現地の人に食べていただきました。日和山公園から見下ろした風景、門脇小学校の3階に車が突っ込んでいる風景、忘れられません。
石巻で開業している先輩の佐藤先生、トラウマで震災後に電車に乗ることができなくなりましたが今もでしょうか。また、会いたいですね。佐久総合病院から石巻市民病院へ移られた長純一先生、一緒に働いたこともありNHKプロフェッショナルにも出ましたが、石巻市長選へ出馬するとのこと。応援します。
2011年3月11日午後2時46分、みなさんは何をしていましたか。
私は、一番の長老のおバアちゃんのところへ往診をしていた時に揺れました。おバアちゃん、「こんなひどい揺れは久しぶり。関東大震災以来。。。」と言っていました。
故郷があるのに、故郷から追い出され、故郷に戻ることができない人たちがいます。
思いと現実の乖離に苦しみ、時間が経てばたつほど思いは薄まり、現実に淀みます。
広島、長崎は、被爆地として人々が留まり、復興し、今に至っています。何が違うのか。。。
2021年3月11日、右白内障手術し、本日眼帯を外しました。
驚きました。透明な透き通る、爽快な世界が広がりました。
これが、おジイちゃん、おバアちゃんが術後言っている世界なんだなぁ。。。
中学、高校時代の同級生とも会いました。彼は同窓会が開かれると仕切ろうとします。
挨拶言葉として「俺は学年で一番のアホ!でも、俺が一番エバっている!」と言う人間。
今、テレビに出てくる会社の社長。話してみると男気を感じ、流れる石です。
そして、残念なことがありました。東京で診ている患者さんが肺がんになり、切除可能と判断し、強引に手術を勧めました。その患者さんの娘さんから電話があり、手術中に大量出血が起こり、危篤状態となっていると。責任を感じます。支えます。支えたいです。
いろいろなことが起こります。
あらためて、普通の毎日に感謝し、私を支える周りの人たちに感謝します。
【誰かの犠牲の上で、私たちのいのちは守られている だから支える】
外来でおバアちゃんが、「目がペチョペチョする。」と言います。
かつて、「はぁ?なんですか?」と思いました。
でも今、「あ~、このことだったのか!」と感慨深く思い出します。
目が上がり、耳が遠くなり、腰が重く、膝が痛くなってきます。
Aging、歳を取って、身体が錆びて来ています。いつか行く道を、同様に歩んでいます。
「上がる」、「下がる」のではなく、駄目になるのでもなく、これまた良い言葉です。
2018年8月、嵐が来る夜、少し早めの夕食を摂ろうと娘と回転寿司スシローに入りました。
左後方からお寿司が流れて来て、何を食べようか思いっきり左を見た瞬間に、プチっと右目が鳴りました。右目の奥で出血し、その血液で光が通らなくなり、物が見えなくなりました。
右硝子体出血です。特に大きなリスクファクターはありません。眼底出血、網膜出血との違いは良くわかりませんが、突然物が見えなくなることは不自由です。硝子体手術という目ンタマに針を刺して眼底を掃除することもありますが、私の場合には経過観察となりました。
右目、2年程かけながら段々と見えるようになりました。良かったなと思っていたら、1年程前から視野に白い膜がかかるようになり、逆に見え難く、本が読めなくなりました。
目の奥の網膜にフィブリンが付着し、増殖膜が形成されたためかと思いました。
亀田メディカルセンター眼科部長の堀田一樹先生に診て頂いたところ、目の奥に問題がある可能性はあるが、おそらく目の前の白内障が悪さしているでしょうと言われました。なので、まずは白内障の手術をして、どのくらい視力が回復するかみてみることになりました。
60歳で右目の白内障は、右硝子体出血に続発したものだと考えていますが、早過ぎます。
母が60歳代で値札がよく見えなく、医療保健適応になっていない時代に白内障の手術をしたことを思い出します。遺伝的にも白内障になりやすいのでしょう。
てなことで、3月10日、木更津の堀田一樹先生の奥さんであるジュンコ先生のクリニックで白内障の手術をしました。抗生剤の目薬を一日3回、その5分後に抗炎症剤の目薬を差します。術日はお風呂に入れませんので、早く起きて風呂に入り、手術しました。
手術自体は10分チョッとか。開眼器を装着し、灯りを凝視しますので、メスも針もハサミも見えなく、痛みも無いので、心配したほどの手術工程ではなく、堀田一樹先生の説明を受けながら安心して手術を受けました。外来の合間の手術で、私の胃カメラと同様でした。
術後は眼帯をし、明日は亀田クリニックで術後の処置予定です。眼帯を外し、寝る時も付ける眼鏡を購入し、約1週間顔も洗うことができないようです。ですので、洗髪を私のかかりつけの散髪屋さんチョッキンハウスに既に予約を取っております。
埋め込んだ眼内レンズ、一応40年は持つようです。レンズ、多焦点ではなく単焦点で医療保険対応の手術を行いました。手術代、3割負担で4万円ほど。安いと思います。
明日の眼帯を外した時の風景が楽しみ、「地球は青かった!」と言うのでしょうか。
3月10日、東京大空襲の日。多くの犠牲者が生まれました。
そして、明日3月11日、東日本大震災から10年が経ちます。
ワクチン担当大臣となった河野太郎さんが、テレビでワクチンスケジュールを発表しています。
医療従事者のワクチン接種がまだまだ終わらないのに高齢者のワクチン接種するスケジュールを発表。
ならば、「一般の人のワクチン接種はいつからですか?」という質問に
河野大臣、ニヤニヤしながら一言、「が・ん・ば・り・ま・す!」と。
新型コロナワクチン・コミナティの接種が始まりました。マイナス80度での保存が必要、振動に弱いなどワクチン配送に問題があると言われていますが、ロジスティクスの進んだ日本ではワクチン配送に大きな支障がないと考えています。問題は、ワクチン量の確保です。
日本に来るコミナティはベルギー製だそうです。EUの輸出許可が必要なのですが、EU内でも不足しているワクチンを日本に大量輸出する許可は難しいでしょう。それを可能にするためには、東京オリンピックを開くので6月までにワクチン接種を終わらせたい!と言うことです。
現在、日本での接種対象は医療従事者になっていますが、基本型ワクチン接種医療機関である亀田でさえ3月中に接種完了することは不可能で、私を含めた一般医療機関のスタッフが接種できるのは4月からになるでしょう。ワクチン不足でかなり厳しい状況です。
致死率の高い虚弱高齢者が集まり、ケアという濃厚接触の場となっているのが介護施設です。その介護施設に入居している高齢者がワクチン接種できるのが4月からチョロチョロ。
なので、一般の元気な人がいつ接種できるのは予測できません。ワクチン供給次第なのです。
河野太郎さんの「がんばります!」という言葉、救われます。
見通しのきかない状況なので「わかりません。」とNOと答えるのも冷たく感じます。
頑張って早くワクチン接種できるように努力しますという言葉に救われます。
私たち医療者は、患者さん、ご家族から絶対に助けてくださいと言われます。
私たちは命を助けるために頑張るのですが、救命することがかなり困難な場合でも「がんばります。」と答えます。NOと言わないこと、断らないことが大切だと思います。
もし、残念な結果になったとしても、責める人はそお多くないです。それでも責めてくる場合には、「頑張ったのですが・・・。ごめんなさい。」と素直に謝れば許してくれます。
「頑張ります!」と言って怒る人はいないでしょう。「がんばります!」、良い言葉です。