~ 理事長のブログ ~

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2020年10月29日(木)

アンチ・エイジング

オヤジどもが、蟹股で、ひょこひょことチャップリン歩行する。。。
テレビで初老の禿げた、デブッチョのオヤジが出てくる。こいつ、俺と同じ歳。。。
アンケートに答えると、年齢が60代にチェックせざるおえない。。。

気持ちは20代、30代なのに、身体は60歳。
毎年、歳を取ります。そして、確実に体の一部に不具合が増えてきています。
節々が重く、痛くなる。歯がもげる。目がつぶれる。耳が遠くなる。

各臓器の機能が、毎年、確実に低下して来ています。
しょうがない。歳には勝てません。
でも、歳に負ける必要もありません。

周りを見渡すと、こんな風にかっこ良く歳を取りたいな!という人が必ずいます。
颯爽と生きて、謙虚に、感謝の気持ちをもって生きて来たおかげだと思います。その方の歳を聞いて、「えっ、そんなに歳を取っているの!」と驚いたことがありませんか。

人生のKeyword「年齢不詳」、憧れます。
身体的にも、精神的にも、認知的にも、社会的にも、潤いのある毎日を送りたいものです。
人生90年もしかすると人生100年の時代、美しく、しなやかに、寿命が来るまで生きたい。

アンチ・エイジングという言葉には、「歳を取らない」という意味ではなく「美しく歳を取る」という意味があると思っています。歳を取らない人はいません。必ず歳を取ります。
だから、歳を取ることを否定するのではなく、いかに美しく歳を取るかが大切だと思います。

そして、私のアンチ・エイジングは走ることだと思います。
私のジョギングは、マイペースで、ゆっくりと楽しく走るのではなく、苦しくて辛くて途中棄権したいと思うけど走り切ってしまう自己虐待型のジョギングです。

Thank You Joggingという3.9Km走るジョギングとコロナ超えジョギングという5.67Kmを超えるジョギング2種類をしています。ほとんどがThank You Joggingですが、気合の入った週末に時にコロナ越えジョギングで約7Km、週3回ほど松永醫院のトレッドミルで走っております。

最後は死ぬんじゃないかなという息遣いをしながら走り、汗びっしょりになって走り切ります。走り終わったら松永醫院のウッドデッキの上で大の字になりながら横たわり、そして、「よし、今日もどうにか走り切った!」と自分自身を誉め、Euphoriaの世界へ沈んで行きます。

Euphoriaユーフォリアの意味、根拠のない過度の幸福感。走り終わった後に襲って来ます。
身体のギアが噛み合い、平衡感覚が蘇り、よどんだ頭がリセットされ、心が晴れてきます。
私にとってのアンチ・エイジングは、走ることだと覚悟しました。


2020年10月23日(金)

病棟から医師が消える

私が研修医の頃は、電子カルテは普及しておらず、紙カルテにボールペンで記載していました。 カルテは各病棟に置かれていましたので、病棟のナースステーションでカルテを書くのが常です。 そのため、早朝から深夜まで病棟に居座り、ときに仮眠をとったり、看護師さんたちとお話をしていました。

医師は常に病棟にいて、患者さんの病室へ行って病歴をとったり、所見をとったりと診察をしていました。私は看護師に育てられた医師で、看護師さんから「テ・ア~テ(手当て)」の精神を教わりました。患者さんの側に行って、寄り添う大切さを教えていただきました。

だから、力のない研修医である私は、一日最低3回ほど患者さんの側に行き、「早く良くなって家に帰ろうね」と願いながら何をするのか。それは、患者さんを笑わせることでした。
笑って、元気になって、早く家に帰ろう。それぐらいしかできなかったのです。

常に病棟にいる。ナースステーションの一角で私がカルテを書いていると、時に患者さんから相談を受けて、深夜でもお話をしたりしました。また、患者さんの家族が表れて、病棟にいる私をつかまえて病状を聞かれたりもしました。

医師と患者さんの関係が濃密だったと思います。「担当である私の名前を覚えない人は、ボケたと言われてしまいますよ。」と言い、私が担当する患者さん全員は私の名前を確実に覚えてくださいました。家族とも、ラポール(信頼関係)をつくっていたと思います。



病院を辞め、開業医という町医者になり、コロナ禍の現状では難しいのですが、以前には入院した私の患者さんの病状を診に病院へよく行きました。いち早く電子カルテを導入した亀田メディカルセンターですので、医師も看護師も電子カルテを颯爽と打ち込んでいます。

電子カルテが普及し、病棟の風景が変わりました。かつて医師がいた所には看護師が座り、ナースステーションにパソコンがズラ~っと並んでいます。かつて看護師がやっていた業務は看護助手さんが行うようになり、看護師さんは電子カルテを黙々と打ち込んでいます。

私が看護師さんから教えていただいた、手を当てること、肌の温もりを通したコミュニケーションの大切さ、寄り添う看護ケアが色あせて消えて行っているような気がします。また、医師も病棟から消えています。時々病棟で医師を見かける時がありますが、常にはいません。

私の患者さんが入院して、命を助けてもらい、退院して、再び私の外来へ通院します。
「入院中の担当の先生、主治医の先生の名前は誰ですか?」という私の質問に答えられない患者さんが多いです。認知症もなく、命を助けてもらったのにもかかわらずです。

電子カルテの普及で医師が病棟にいなくなり、遠く離れた医局の中に消えてしまいました。

病棟から離れた医局の中で病室に行かなくても、電子カルテを用いて医学管理ができるようになりました。病棟をまたいだ色々な病室に入院している患者さんを医学管理することが可能となり、受け持ちの患者さんが病院のあちこちの病室に散在するようになりました。

医師は病棟から離れた医局に集まり、入院翌日の朝のカンファレンスでは入院患者さんの情報を医師全員で共有しています。どんな病気を持っているのか、どんな人生を送って来たのか、家族状況、家庭環境、地域環境まで報告され、チーム医療としては最高のパフォーマンスを発揮しています。

素晴らしい医師のチーム医療だと思います。でも、そんな電子カルテを用いて患者を診なくても医学管理ができる医療の中で、患者の側に行こうとしない医師とそれでも患者の側に現れる医師とに分かれます。皆さんは、「患者さんを見ないで患者さんを診る」医療に対してどう思われますか。

「患者さんの側に行き、患者さんに手を当てなさい」と看護師から指導を受けた医師として、私は患者さんに寄り添う医療を目指して来ました。あなたの命を守り、あなたの今を守り、あなたの未来を守りたいという思いが、優しい医療、チームケアに通じると思います。

今の電子カルテへの流れは止めることはできないでしょう。しかし、紙カルテのころに医師が常に病棟にいることで患者さんと濃密な関係が築かれ、ナースステーションに常にいることで看護師さんや、MSWともいろいろな情報交換ができていたことを忘れてはいけないと思います。

患者さんに伝えたいこと
困ったらいつでもあなたを支えます・
あなたの未来の命を守ります、

松永醫院、今だに紙カルテです。
とはいうものの、レナ先生、ご主人様、そして私の3人の医師体制となり、情報の共有化を目指し、未来のことを予測し、電子カルテ導入を視野に入れていますが・・・。


2020年10月16日(金)

下水道工事

現在、亀田総合病院にて下水道工事となっています。
5年ぶりの内視鏡となり、良性の過形成ポリープのフォローアップ検査となります。
途中、便ヒト潜血反応検査は毎年行っており、陰性となっていました。

2Lのニフレックという経口腸管洗浄液を30分チョッとで1.5L飲み、途中亀田メディカルセンターの中を歩き回り、排便するマイトイレットを決め、闘いの準備をしております。
胃癌、大腸癌で死ぬのはもったいない時代、それなりの命を守る努力をしております。



それにしても、亀田メディカルセンターの25年間の成長は素晴らしいです。
患者さんを「患者さま」と呼び始めたのは亀田が最初です。接遇のレベルアップへとつながり、気持ちの良い病院となりました。電子カルテを最初に導入したのも、亀田です。

病院の前に門前クリニックを作っている病院が増えました。これは、同じ外来診療をしていても病院よりクリニックで行った方が収入が増えるという国の経済誘導です。しかし、亀田はそんな経済誘導する前から、専門性を上げるために入院と外来を分けるという理念先行型の運営を行いました。



亀田は道なき道を歩き、その後に日本がついてきた!ってな感じでしょうか。
亀田が経営危機に陥ったことがありましたが、そんな時にも教育に力を入れて外国から指導医を連れてきて医師を育てていました。人を育てることは、100年未来を創ることです。

今では、東京から亀田行きの高速バスが出ています。アクアラインを渡り、房総半島を横断し、鴨川にある亀田メディカルセンターへ到着します。東京駅近くのクリニックで術前検査をして、木か金に入院し、手術。週末は太平洋の水平線を眺めてゆっくりと過ごし、月には退院して東京へ戻る。。。

亀田メディカルセンター内には、全室個室、オーシャンビューの入院棟Kタワーがあり、上部にはレストランがあり、ホリゾンタワーという水平線が眺める研修スペースがあります。タリーズコーヒーがあり、ローソンがあり、病院というよりは小さな街です。



都会にいれば助かったのに。。。医者がいなくて。。。というのが田舎。
南房総は田舎ですが、日本最高レベルの医療が提供され、逆に都会から患者が来るような、日本一いのちの安心安全な地域となっています。亀田メディカルセンターに感謝します。

亀田メディカルセンターの医師の数も、最初は10数人だったのが今では500人を超えています。卒後研修病院としての人気は日本トップクラス、田舎の研修病院では断トツトップです。マグネットホスピタルとして、特に若い医師が日本国中から集まってきているのです。

そんな未来に向かって走っている亀田メディカルセンター、そのマンモスの側で細々生息している青色吐息で頑張っている小っちゃなアリンコである松永醫院が頑張っています。
守備範囲が違っていると思います。亀田は命を助けるところ、松永醫院は命を支えるところ。

マンモスとアリンコの共存共栄を図っていきます。
ときに夢見ます。アリンコがマンモスを倒したら面白いだろうな・・・
と、房総半島の先っちょで妄想し、暴走しよう。

それにしても、N先生、痛みも無く、世間話をしながら丁寧に診ていただきました。
終わった後に、オナラなのか洗浄液なのかきわどい状態で失禁してしまうことを想定し、替えのパンツとパットを持って行きました。そんなことは杞憂で、逆にお腹がスッキリ、爽やかなお腹になりました。

人に肛門を突き出す。そんな尊厳に触れるような行為をしました。
また、過形成ポリープはありましたが、大丈夫。生き延びた。
ホッとしながら、午後の仕事へ向かいました。


2020年10月13日(火)

食欲の秋

ご主人様の誕生日に、ご主人様と結婚して初めてご飯を炊きました。
松茸ご飯、朝5時半に起きて炊いてみました。強敵・永谷園の松茸お吸い物に勝ったと思います。
今年の松茸、岩手では豊作なのでたっぷりと、秋の味・満載でとっても美味しく食しました。



お米料理では、フライパンでパエリアもマイブームの一つです。ムール貝、エビ、イカ、浅利などの海の幸と鶏肉、ベーコンを入れ、ナス、タマネギの野菜、エリンギも入れ、赤、黄、オレンジのパプリカもたくさん入れて作りました。そして、私はパクチーを最後にトッピングします。



千倉の港に上がったカツオも一匹丸ごと頂きました。私もご主人様も魚をさばいたことがありません。ですので、叔母のギンコさんにお助けコールをし、ギンコさんの指導のもとご主人様が頑張ってさばきました。片身はお刺身で、もう一つの片身はタタキにして翌日食べました。



日本三大和牛は、松坂牛、神戸牛、米沢牛です。その松坂肉のスジを取り寄せ、スジ肉料理を作ってみました。一度湯通しをして肉のアクをとり、圧力釜で30分炊きました。最初はスジ肉の煮込みで、次にカレーにして食しました。スジ肉って火を通せば通すほど溶けて肉が小っちゃくなってしまうのですね。



あと、簡単な料理を紹介します。
アスパラガスの根元の皮を削ぎ、適当な長さに切り、レンジで3分ほどチン。
その上にオリーブオイルと塩胡椒を少々



生きることは、食べること
サーモンの刺身に山椒塩昆布を少々入れるだけ
これまた最幸、お試しあれ。


2020年10月09日(金)

Kさん

私は、父・松永春二が大嫌いです。逆らうと常に殴られ、自由もない、思い出もない薄っぺらな幼少時代を過ごしました。 だから、千倉を捨てて東京へ行き、父と闘いながら常に父から逃げていました。 そんな父を嫌っていた私が、千倉に戻り、松永醫院を継承し、父と同様に裸足で往診して25年も経ちました。


父は、強い男で、優秀な医師でした。猛者である漁師たちが、「お前ぇーの父ちゃんは、怖かったなぁ。軍医上がりだったものな。でも、優しかったよ。」と言います。優しいのか、厳しいのか。軍医上がりでもないけれど、父・松永春二は敵、味方を作るタイプの医師でもありました。



患者さんには優しくて、厳しい父の患者さんは、父を信頼し、熱狂的な松永醫院の患者さんとして通院していました。父が潰れ、私が松永醫院を継承し、そんな父から受け継いだ患者さんは私にとって特別な患者さんとなります。とにかく私を信じてくれます。有難いことです。



Kさん、夫婦ともども診させていただき、お母様も在宅で長年にわたり診させていただきました。心房細動を持っており、右腎細胞がんで右腎を摘出している癌サバイバーでもあります。ある朝、なんか調子が悪いから松永醫院へ向かおうとしたら、自宅玄関で失神発作を起こし救急搬送されました。

途中で肺炎も併発し、点滴、抗生剤投与、酸素吸入もしていたので当然抑制されていました。その結果、入院期間が1か月超えてしまい、杖無しで歩いていたKさんは歩行困難となり、オムツ、寝たきり状態。認知症も進行してしまい、自分の息子もわからない状態となってしまいました。

Kさんとは、「元気なうちに、将来のまさかのことを決めておこう!」と、最後は妻と一緒に自宅で養生し往生すると、心臓マッサージなどの侵襲性の高い治療は希望せず、食べられなくなったら経管栄養は希望せず、枯れて老衰になると取り決めていました。そう、最期は自宅のはずです。

Kさんは、入院期間が1か月を過ぎ、身体が壊れ、頭が壊れてしまいました。その姿を見た子供たちは、驚き、悲しみ、とても自宅へ帰れるようになるとは思えなかったようです。
80歳を超えた高齢者は、入院期間が1か月を超え、ベッドでご飯を食べていると、まず壊れます。

ご本人は自宅へ帰りたいと吠えるも、「病院治療は終了しました。この後は、ご自宅に帰るか、後方病院に移るのとどちらにしますか。」と家族に聞かれ、ご本人のいないところでご本人の意向と逆の方向へ行き先が勝手に決まり、地域から消えて行く今の日本です。これで、良いのでしょうか。

高齢者ケアの大原則、憲法に匹敵すると思うのですが、「自己決定の尊重」があります。
自分の人生、自分のいのちは自分で決める。これは、当たり前のことですね。
でも、今の日本では、本人の意向は無視され、家族の不安が優先される国となっています。

「自己決定の尊重」クソ喰らえの日本になっています。
自宅で過ごせるかどうかは、自宅に帰らないとわかりません。なのに、自宅へ帰るチャレンジを一度もしないで、本人の意思と違う後方病院、後方施設へ移り、地域から消えてゆきます。

壊れてしまったKさんを見て、優しくて面倒見の良い奥さんはあきらめてしまい、息子も共倒れになってしまうと考え自宅へ帰ることをあきらめていました。家族は後方病院へと決めているところで、奥さんと息子と嫁と松永醫院の診察室でKさんの相談を受けました。

病院は命を助けるところで元気になるところではない。高齢者が1か月以上の入院をすると、身体も頭も壊れてしまい、寝たきりやボケてしまうものですよと伝えました。元気だったころのKさんは自宅で過ごされることを願っていましたので、チャレンジしてみませんか。と提案しました。

私の老人保健施設「夢くらぶ」に来て、点滴をせず、抑制を外し、離床し、刺激を与え、リハビリをするとドンドン元気になります。そんな事例を笑顔グループのホームページを見せて説明しました。「夢くらぶ」は、身体と頭と魂が復活するところですよと。。。

そしたらKさんの優しい家族は、成功したケースの裏には失敗したケースもあるはず。。。
「夢くらぶ」は長くて3カ月しか居られないとのこと。もし、Kさんが元気になれなかったらどうすればよいのかと不安に思っておられるようでした。

チャンピオンケースの裏には、多くの失敗例があるはずと。なるほどそう思うのは当然です。
でも、「夢くらぶ」には失敗例はないです。ほとんどが元気になりますが、寿命を迎えて枯れて行くか、他の病気が出て入院になるかのいずれかとなります。

「家で過ごせるかどうかは、家に帰らなければわかりません。だから、自宅に帰りましょう。
もし、自宅に帰って自宅で過ごせなければ、私が再び面倒を看ますよ。」と言って、優しく自宅へ突き返すようにしています。そして、Kさんの家族にも同様のことを伝えました。

しかし、Kさんの優しい家族は直ぐに首を縦に振りませんでした。
私は、普通であれば後は勝手にしろ・・・と思い、見切りをつけたでしょう。しかし、私は、「本人の願う自宅へチャレンジしませんか。」「居たければ居たいだけ居ても良いですよ。」と粘りました。

私が、「お願いだからみさせてください。」とお願いしたのはなぜか。
それは、父・松永春二から受け継いだ患者さんだから、私を信じて通ってくれた患者さんだからです。やっぱり、町医者としてご本人を放ってしまうことができないからなのです。

結局、Kさんの優しい家族はKさんを私に任せてくださいました。Kさん、月曜日に「夢くらぶ」に転所したときには、歩くどころか座ることもままならなく、意思の疎通も困難な状態でした。しかし、その週の金曜日には立って竹刀の素振りができるまでに元気になったのです。

奇跡の復活だ!と思いました。
でも、その日曜日に下血し、病院に入院し、多臓器不全でフゥ~と逝ってしまいました。
残念です。でも、ご家族も、私たちも、進むべき方向は間違っていなかったと思います。

Kさん、「もお、いいよ」と言い、シャボン玉が消えるようにフゥ~と逝ってしまいました。
父から受け継いだ患者さんも、次第に少なくなってきました。
田舎のヘッポコ二代目町医者である私を、父・松永春二はどのように思っているのだろうか。


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