~ 理事長のブログ ~

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2019年05月28日(火)

研修医

もう一度生まれ変わって人生再スタートするならば、やはり医師の道を目指すでしょう。
もし研修医としてスタートするならば、昔であれば憧れの佐久総合病院を選ぶでしょう。
佐久総合病院は地域医療のメッカ、若月俊一先生というカリスマドクターがいました。

私が研修医として入職したみさと健和病院、柳原病院は、都会の佐久総合病院を目指すと言っていました。 「地域の中へ」ということで、地域の中に行き病院から見えない風景を見たり、病院へ届かない地域の声を聞いたりしました。

「Act Locally、Think Globally」有名な言葉です。
最近では「グローカル」という造語も作られています。グローバルに考え、ローカルに行動することの大切さを若月先生が言っていたのです。

その佐久総合病院という信州片田舎の大病院に、全国から地域医療を目指す若き医師が集まっていたのです。全国から医道の異端児が集まって地域医療を実践し、医療を壊し、パラダイムシフトを起こすことにより正当派となり、地域社会、日本社会を変えて行ったのです。

佐久総合病院の若き医師たちは、若月イズムを文化として頭に叩き込まれ、困っている市民のいのちを助けるため、健康に市民が暮らせるために、前例のない医療を実践して来たのです。長純一先生、色平哲郎先生、北澤彰浩先生たち、素晴らしい若月イズムの後継者です。

そして今、私が研修医となり再スタートするならば、亀田メディカルセンターのGコース、Generalistコースを選ぶでしょう。なぜならば医学から医療までを学べ、日本から世界まで、専門医療から総合診療まで、病院から診療所まで、生まれてから亡くなるまで、何でも学べるからです。

亀田メディカルセンターの研修コースには、GコースとSコース、GeneralistコースとSpecialコースの二つが有ります。Sコースは大学病院で研修をするのとそう変わりはないと思うので、田舎で研修をするのならばGコースがおすすめです。

Gコース、研修の場が館山にある安房地域医療センターという250床ほどの中規模病院となります。病棟が混合病棟となり、専門科をまたいで繰り返し勉強をすることができます。
そして、給食の向こうに作ってくれたおばちゃんの顔が見える距離の規模が良いのです。

そんな亀田メディカルセンターGコースから今年も研修医が来ました。
赤穂良晃先生です。アコウ先生、青森県八戸出身です。映画監督を目指していたようです。

日本で二番目に高い山は何か?という私の問いに、アコウ先生は「北岳」と即答し、「登ったことがあります」と。アコウ先生、大学では山岳部に所属していたそうです。
あと、ディズニーシーでキャスティングスタッフとしてバイトをしていたそうです。

アコウ先生、おそらく、今まで来た先生方の中で一番メモをとっていた医師でしょう。
謙虚で爽やか。一生懸命する人には手助けをしたくなるのが人の常。こちらが積極的に指導したくなるタイプの研修医でした。

3日間の千倉研修でしたが、私の思いの70%ほどを伝えたでしょうか。
おそらく、アコウ先生はそのほとんどを吸い上げ、学び取ったことでしょう。
どんな医師に成長してくれるでしょうか。楽しみです。10年後、また会おうね。

そして、一番感心したというか共鳴したことは、医師になってお礼の気持ちを込めて親に旅行をプレゼントしたそうです。 湯布院にある日本を代表する有名な三大おもてなしの宿の一つにです。 最高の親孝行になり、一生の思い出にもなったことでしょう。

ご主人様との新婚旅行で行ったのが湯布院です。一泊2万以上する宿に泊ったことがない私が、生まれて初めて鼻血が出るほどの高級宿に泊りました。お酒を飲みながら美味しい料理を食べ、温泉に入り、自分たちだけをもてなす仲居さんのサービスを受ける至福の一時。

我が笑顔グループでは、一年間一番頑張ったスタッフに最高のおもてなしの宿をプレゼントしています。プレゼントされた頑張ったスタッフ、みなさん満足して帰ってきます。
一番大切なことはヒューマンウエアであり、こころからのサービスです。

亀田メディカルセンターの医師が地域医療の研修で来ます。
10年未来のいのちを守ること、選択肢の少ない豊かさがあること
そんな田舎町医者のこころを伝えます。


2019年05月22日(水)

オカルト骨折

プライマリケア連合学会IN京都の特徴、子連れのママさんが多いことです。
託児所も準備されていましたが、定員以上のママさんたちが集まりオーバーフロー状態。
講演を聴いていると後ろの方で赤ちゃんの泣き声が聞こえてきます。女医さん、頑張れ!

あと、ペーパーレスの学会、インターネットを用いた学会になってきています。
今まで学会に申し込みをすると、参加証、分厚い学会抄録集、弁当券が送られてきましたが、今はQRコードを用いて参加確認、抄録集もインターネットでスマホ、iPadを用います。

講演資料もパワーポイントのコピーを用いるのでなく、シラバスとかいうQRコードを用いて資料をスマホ、iPadにダウンロ-ドして講演を聴きます。困ることは、今までは厚い抄録集の空欄にメモ書きしていたのができないことです。



高齢者ケアで良く遭遇する骨折、骨折かもしれないとケアが萎縮します。骨折しているかどうか、骨折していればどの様な治療が待っているのか、骨折の教育講演がありましたのでまとめてみました。講師は札幌東徳洲会病院の救急科・増井伸高先生が講師です。

レントゲンに写らない骨折があり、Occult Fractureオカルト骨折と呼ぶそうです。
オカルト、オカルト映画のオカルトです。骨折の2~4%がレントゲンに写らないそうです。
ですので、レントゲンだけで骨折の有無を断言することは危ないですよ。

骨折で多いのは
#1.椎体圧迫骨折
#2.大腿骨近位部骨折
#3.橈(トウ)骨遠位端骨折
#4.上腕骨近位部骨折

#1.椎体圧迫骨折
圧迫骨折の40%程は、レントゲンで圧迫骨折像がない、椎体が潰れていないそうです。
フレッシュな圧迫骨折であるかどうかはMR検査だけ、T1強調、STIR条件でしかわからないそうです。

体動時に痛く、背部殴打痛があり、圧迫骨折を強く疑う場合にはMR検査をすすめていました。経皮的椎体形成術PVP:percutaneous vertebroplasty という椎体にセメントを流し込む治療を行えば、早く痛みが取れて廃用症候群の予防になるそうです。

#2.大腿骨近位部骨折
股関節包内で骨折 ⇒ 大腿骨頸部骨折
股関節包外で骨折 ⇒ 大腿骨転子部骨折
骨折が疑われる場合、下肢の内旋外旋で痛がるそうです。

大腿骨頸部骨折にはGarden分類がありstageⅠ~Ⅳに分れ、骨折面がズレるstageⅢ、Ⅳは人工骨頭置換術の適応になるそうです。また、片側を骨折すると、もう一方を骨折する危険性が10倍高くなります。

インプラント周囲骨折という骨折を繰り返すこともあり、その場合にはオペ元の医療機関に戻すことが大切だそうです。転倒しての骨折には、恥骨骨折もあり、仙骨まで骨折することもあるそうです。仙骨までの骨折になると、体重負荷制限があり、時間がかかるとのこと。

上肢の骨折は歩行可能なので、通院を中心に治療することが多く、受傷前の活動性によりゴールが異なるそうです。ヨガの先生、習字の師匠であったなら元を目指し積極的治療を行い、車いすレベルなら無理をせずに経過観察することになります。



私たちは、元気になり、笑顔になることを願っています。ですので、抑制せず、ゴソゴソ動いてもらいます。歩いてもらいます。人間は動物、動く物です。ですので、動かないと病気になります。弱っちゃうのです。だから、日中離床、動いてもらいます。歩いてもらいます。

当然、転倒、骨折のリスクが高くなります。ご本人、ご家族にはこのことを理解して頂き、できるだけ安全を期してリハビリテーションを行うようにしています。でも、時に転倒していなくても骨折が疑われる場合があり、骨折のマネージメントを勉強したいと思っていたところでした。


2019年05月19日(日)

プライマリケア連合学会 in 京都

この週末、京都へ日本プライマリケア連合学会に参加してきました。
全国から5000人を超える医師が集まり、「これまでの10年、これからの100年」という題で勉強しました。 今までのなかで一番大きな勉強会だと感じました。



プライマリケア医とは、総合診療医と言われたり家庭医と言われたりします。
プライマリケアという言葉の意味、実は私はきちんと説明することができません。 プラマリという意味、最初にという意味があったり、丸ごとという意味があったりします。

プライマリケアであって、プライマリ医療ではなく、プライマリメディスンでもないです。
「いのちを助け、いのちを支える医療」となるので薬などを用いる医療だけでは足りなく、医師以外の多職種がチームを作り、協働してケアを提供することになります。

プライマリケアの流れには、意識の高い町医者が集まり実地医家の会ができ、地域医療を実践して中小病院の医師たち、大病院の何でも診ようという総合診療医たち、自治医科大学出身の僻地診療を行っている医師たちが集まってできたのがプライマリケア学会です。

私は、民医連の病院出身なので東京の地域医療を行っている中小病院・柳原病院が出発点となり、町医者となっているので実地医家の会の流れの二つが有ります。柳原病院では、弱者への視点を忘れないこと、在宅医療の大切さ、地域へ出て行くことの大切さを教えて頂きました。

また、私は看護師から指導を受けて育った医師です。ですので、私は看護師とは対等の関係だと考えていますし、看護師の言葉を重んじるようにしています。逆にいい加減な看護師をみると腹が立ちまくります。看護師が活躍する地域は優しく豊かになると考えています。

1990年代、開業医、地域医療をしている中小・大病院の医師、自治医科大学出身の医師が集まる第1世代プライマリケア学会に、アメリカ生まれの家庭医・ファミリーメディスン出身の若き医師たちが参加して第2世代のプライマリケア連合学会が新たに生まれました。

プライマリケア学会が第1世代から第2世代に変わることにより、エビデンスとか科学に基づく医療とか学術的思考が強くなったことは嬉しいことです。ただ、患者側に迎合的になるようなスキルが増え、守るべきスピリッツがどこか消えてしまっているような気がします。



京都国際会館、立派な会場でした。かつて一緒に勉強していた仲間、一緒の病院で働いていた仲間たちと会いました。頑張っていますね。南房総から参加したのは、亀田メディカルセンターからの医師たちがたくさん参加し発表していました。あと、自治医科大学出身の富山国保病院の山田先生とも会いました。みんな、勉強していますね。

開業医の参加が減り、高齢化にもなっているような気がしました。逆に、ファミリーメディスンを志す若き医師たちがドンドン増えています。整形外科医でない医師が、整形外科関係の勉強会へたくさん参加していました。骨折、腰痛などに会う機会が多いからでしょう。

今回のプライマリケア連合学会、土曜日の早朝に京都へ向い参加しました。つまり、松永醫院の外来は田上玲奈先生にお願いし、二日間の学会に参加することができました。玲奈先生の存在はドデカいです。感謝します。



京都、外国人が沢山いました。大きなトランクを引きずりながらの旅人が沢山いました
レストランのメニューには、英語、中国語、ハングル語の3つは必ず書いてあります。
京都駅は早朝から深夜まで人混みがすごいのですが、駅から少し離れると落ち着きます。

夏のクソ熱くなることを考えなければ、京都は住みたくなる街です。
自転車で回れるほどのコンパクトシティー、車も安全運転、車の通らない赤信号を守る市民たち、ユッタリしています。 食べて店を出る時には「おおきに!」と声をかけてくれます。



東京から2時間の距離、帰りの新幹線のなかでこの文章を書いております。
何年ぶりで来たのだろうか。また、京都へ行きたい。行くことがあるだろう。
その時にはリニア新幹線ができているのだろうか。

日本一高い山は富士山。では、2番目に高い山は何でしょうか。
日本一速い電車は新幹線。では、2番目に速い電車は何でしょうか。
知っています?それが、一番と二番との差なのです。
(答え 北岳 と 京成スカイライナー)


2019年05月15日(水)

焼き鳥パーティ2019

海の街・千倉の深山で、年1回の焼き鳥パーティーが開かれました。
初夏の匂いのする風が、田植えの終った田んぼをつたいながら爽やかに吹いて来ました。
今年で20回目ぐらいになるでしょうか。最近は年1回、5月の日長な週末に開いています。



焼き鳥名人である嶋田さん、秋田県出身。町田で焼き鳥屋を5軒ほどやっていたそうです。
手羽先の骨を抜いて高温で焼き切り、最後に味噌ベースのタレをつけます。とっても柔らかく、ジューシーな焼き鳥で、今まで食べた中で一番美味しい焼き鳥です。

焼き鳥名人・嶋田さん、ビールを飲みながらガンガン焼きまくります。
ただ、問題なのは、嶋田さんはオーバー80歳。でも、まだ、頭も身体も壊れていません。
私の娘のユメの結婚式で焼き鳥を焼いてもらう約束をしておりますので、あと20年頑張ってもらいませう。

焼き鳥パーティー、元スタッフで、友人で、患者さんでもある水上さんのご自宅で開かれます。なぜまらば、水上さんの亡くなられた御主人が企画したのが始まりだからです。御主人、熊本生まれの九州人、定年後に水上さんの故郷・千倉へ来られ、私は沢山の助言を頂いたのでした。

水上さん、メチャクチャ家庭料理の上手なオバハンです。ア~っという間に20人分ぐらいの料理を作ってしまい、食べきれないぐらいでした。そして、水上さんの友人2人が参加。アイカワさん、おとボケでした。カガタさん、飲んだくれでした。3人とも年齢不詳、自分が一番若いと考えているようです。

美味しい焼き鳥に、美味しい料理を食べ、生ビール、ワイン、吟醸酒をたらふく呑み、愉快な仲間たちと供に呑むカッポレ、最幸ですね。
子ども達から老若男女まで、私の大好きなゴチャマゼ。来年も楽しみです。

ユメ、日頃は東京。週末は千倉に戻って、月曜日の早朝の高速バスで通学しています。
中学を卒業して、久しぶりの同級生との再会。よかったね。
みんな、それぞれの道を歩んでいます。千倉のユッタリ風景、忘れないでね。


2019年05月07日(火)

長崎紀行

久しぶりに長崎に行きました。昔、私が高校生のころ、私の故郷は長崎だと言っていました。
なぜならば、私の昔の本籍が長崎、私の両親の出身が長崎だからです。 父、松永春二の本拠地は長崎の繁華街である思案橋。母、松永(旧姓:吉田)イサヱの生まれは五島列島の黄島。

父、松永春二はオランダの血が8分の1入っている長男、家系的に複雑な家柄のようでした。 長崎大学医学部の学生だったときに被爆し、九州大学へ移り、卒業し、医師になりました。 九州大学を卒業した後、長崎大学に戻り、外科を専攻しました。

母、松永イサヱは吉田家が長崎に移り住み、長崎の純心女子学園を卒業し、大阪日赤で看護師になり、長崎に戻ってきたそうです。母のルーツである吉田家、元漁師一家で、酒が強く、朝からご飯に酒をかけサケご飯を食べていたそうです。おかげで・・・

二泊三日の長崎紀行、出発する羽田空港での朝ご飯はシャケご飯でした。ただし、アルコールは抜きです。 午前7時45分のフライトに乗るために、私は午前4時前に起き、午前5時過ぎに千倉を出発し、羽田に着いたのが午前6時過ぎ。1時間ほどで羽田に着いたのです。



今回の長崎紀行の目的、来年長崎で開かれる在宅ケア大会の準備のためです。
それと、子ども達に長崎の原爆資料館を見せて原爆の現実、戦争の悲惨さを伝えることです。
私のルーツである長崎を知ってもらい、美味しいものを食べ、市内観光をする予定。

長崎には美味しいものが沢山あります。海の街ですので魚が、日本料理が美味しいです。 日本三大中華街の一つがあるので中華料理が美味しい。長崎チャンポン、長崎皿うどんが有名です。 そして、江戸時代に海外との窓となっていた出島がありましたので卓袱料理という和洋折衷の料理があります。



長崎市内に着いたのが午前11時ごろ、最初に食べたのが長崎中華街である新地の江山楼という中華レストランで長崎チャンポンと長崎皿うどんを食しました。それに、トンポーロウという豚の角煮饅頭とカニ玉を食しました。ここのチャンポンスープは最幸ですね。





思案橋ラーメンという名のお店。長崎出身の俳優・福山雅治さんの行きつけのお店で有名だそうです。 当然、長崎チャンポンを食しました。生卵がのっていました。 夕食後にデザートとしてチャンポンを、長崎滞在中に全部で4回食す。おかげで体重3Kg増えちゃいました。



午後からは長崎原爆資料館へ行きました。平和公園と浦上天主堂も見ました。
長崎原爆投下時間、1945年8月9日午前11時2分、女性も子ども達も市民が活動している時間帯に、こんな時間に落とすとは・・・。



何の罪もない市民が一瞬にして8万人ほどのいのちが亡くなり、全部で15万人もの市民が被爆されました。長崎、広島の市民は、医師も含め放射線の知識を知りませんでした。
なので、長崎市民は被曝を受けた後も市内でそのまま生活し、現在に至っております。

長崎原爆が落ちたところは、長崎市街地の北部・大浦地域です。長崎には海軍が配備され、大きな造船基地、大浦地域には軍事武器製造基地がありました。しかし、大浦地域には有名な大浦天主堂があり、外国人の捕虜収容所があり、長崎大学医学部がありました。

被爆の日、父・松永春二は医学生でしたが、長崎大学病院のコンクリートの中で勉強していました。医学部、大学病院ともに爆心地から約500mの距離にあり、まず生存することのできない距離でした。医学部は壊滅状態、大学病院のコンクリート壁が少し残っている状態でした。

原爆の被害は、爆風、熱線と放射線でおこります。爆風で建物が粉々に壊れ、熱線で一瞬にしてマル焦げ状態となり、放射線でDNAが破壊されてしまいます。医学部は木造施設で壊滅的状態となり、コンクリート壁に守られてた大学病院の中で父は奇跡的に助かったのです。



意識を失っていた父を助けた同級生は、翌日、亡くなったそうです。
父が住んでいた思案橋薬局の2階で寝ていた叔父は、ものすごい音とともに屋根が飛んで行き、沈黙の数秒、そして黄色い風が頭上を通り過ぎて行った・・・と言ってました。

マル焦げになった男か女なのかわからない遺体がいたるところに転がり、歩くとザクザク音がなっている。子を守ろうと母が子を抱いている姿が岩に焦げ残り、映し出されている。
ケロイドになり、水を飲みに川に入り息絶えた人たちが浮かんでいる。生き地獄です。

一発で、一瞬で、10万人を超す市民のいのちを奪ったアメリカに怒りを覚える。
そのアメリカのイエスマンとなり、子分のように振る舞う日本を理解できない。
唯一の被爆国でありながら、二度と同じ過ちを繰り返さないと核拡散条約に批准しない日本を恥じる。



今回の長崎訪問で一番感じたことは、父が奇跡的に助かったことを知ったことです。
ということは、私の存在も奇跡なのでしょう。ご主人様と出会えたのも奇跡です。
子ども達とも出会えたことは奇跡です。今のこの奇跡に感謝します。



私が覚えていますので被爆から20年以上経っているのでしょう、父の背中からガラスの破片が出てきました。 父・松永春二は72歳で亡くなりましたが、長寿日本において72歳で亡くなることは若いのですが、あの時死ぬべき人が50年以上生き延びたことは有難いです。

50年以上前に住んでいた山の家を探しに記憶を辿り朝ンポしましたが、通常30分で歩いて行けるところを1時間半ほどかけながら徘徊しました。新しいバイパスができておりなにが何だか、通行人に尋ねながらどうにか辿り着きました。途中、私が通ったレデンプトール幼稚園も見つけました。



長崎、オランダとのつながりを感じました。松永家のルーツも感じました。
稲佐山から世界新三大夜景を観て、長崎港で海風に吹かれながらボォ~っとし、美味しい料理を食べて幸せを感じ、長崎原爆の事実を知り涙し、平和であることの大切さを感じました。





平成から令和へ 時代が変わりました。
いのちに優しく、こころ豊かな、しあわせを感じられる地域を創ります。

次の9日間の大型連休は30年後、次は何をして過ごしているのだろうか。








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