モデルとなる良い医療を行えば、タンポポの種のように日本中に飛んで行き、各地で実をつけてくれるだろうと考えました。
東京医科歯科大学付属病院、虎の門病院、そして亀田メディカルセンターから沢山の研修医が松永醫院の見学に来られ、学んで満足して帰って行きました。
しかし、日本は何も変わっておりません。私の回りも変わりがありません。
私の住んでいる安房地域において、私の行っている医療を理解している医師は一人いるかどうか。。。
まず、ほとんどの医師は私のことを知らないし、理解しておりません。
点でのボトムアップには限界があると思い、面でのボトムアップを図ろうと安房医師会理事に入って行きました。
私が力を発揮できるのは医療介護連携だと考えていましたが、学校保健担当理事を任せられ、1年が経とうとしています。
この一年間を振り返ると、不満足の一年になってしまいました。
コミュニケーション能力の無さ、交渉能力の無さを痛切に感じております。
だから、去年一年間の自己評価が100点満点中62点と低くなってしまいました。
これではマズいと考え、私の担当である学校保健担当に関して後ほど述べますが
医療介護連携に関して、地域包括ケアの推進のために、私の考えを安房医師会理事会のメーリングリストに伝えようと考えています。それと同じ内容の物をみなさまにも紹介しますね。
「地域包括ケア」とは「望むところで生き切ることのできるケア」
地域包括ケアと全国で叫ばれて、その地域包括ケアが達成できている地域はありません。
地域包括ケアを簡単に言えば、「望むところで生き切ることのできるケア」と言い換えることができます。
もっと簡単に言えば、在宅看取り率を上げるということです。
今の豊かな日本を作って下さった高齢者達は、人生の最期を自分らしく自宅で過ごし、家族、友人に囲まれながら地域で生き切りたいと願っています。しかし、その願いが叶えられる高齢者は、たったの8%。豊かな日本のために自己犠牲を払ってきた高齢者の最期がこれで良いのでしょうか。
在宅療養がKeywordで介護保険が誕生しましたが、施行された2000年の在宅死亡率は18%で、現在は13%と逆に下がってしまっています。しかも、在宅死亡率が13%の中には自宅の風呂で極楽死などの異状死も含められていますので、看取られ率は8%程になってしまいます。
「望むところで生き切ることのできるケア」、地域包括ケアの推進を在宅医療の推進と同じだと勘違いをしている方は多いです。地域包括ケアの推進の指標は、在宅看取り率。しかし、在宅看取り率は統計に出てきていないので、在宅死亡率がその指標になると思います。
在宅医療先進地域として有名な街、柏、松戸などがあります。私の先輩が運営しているあおぞら診療所などの有名な診療所が頑張り、医師会、行政、民間事業所が協働しながら頑張っております。しかし、柏、松戸の在宅死亡率は決して高くなく、地域包括ケアは推進されていません。
どうしたら、地域包括ケアが推進できるか、在宅死亡率が上がるか、在宅看取り率を上げて
「満足死」を達成することができるのか、検証してみます。
私の高校受験、何も覚えていません、志望校は安房高校しかなかったからです。
受験勉強もそうしなく、他の高校も受験せず、安房校区だけ一校受験しました。
受験勉強をそうしなかった結果、大学受験で痛い目に遭い、月日を費やすことになりました。
私の娘の高校の行き先が決まりました。
私の母校である安房高校で良いと思っていたら、「将来のためにより豊かな知識と知恵を教えてくれる、質の高い授業をしてくれる高校へ行きたい。」と。
人生の目的は幸せになること。でも、自分独りだけ幸せになることができないので、まず幸せを回りに配りなさい。そうすると、幸せを周りにドンドン配れば、幸せはドンドン大きくなり、回りのみんながドンドン幸せになり、いつかは自分が幸せになることができる。
と娘には伝えていましたし、これを「社会貢献」と言うんだよと教えていました。
娘は、より大きい社会貢献をするために、質の高い授業を受けたい。そのために、質の高い授業をしている高校へ行きたいと言い、頑張って来た半年でした。
私もその高校を第一志望にしようと思ったのは、学校説明会を聴いたからです。
一日の始まりは「運針」から始まります。黙々と布を編む5分間。唯ひたすら集中。
今の時代、そんな高校があるとは面白いものだと思いました。
学校の理念が素晴らしかったです。学校運営ではなく学校経営と言い、素晴らしいです。
単に進学実績を最優先にするのではなく、長い人生において通用することのできる生き方を教えてくれるのです。
課題解決能力を高め、科学的視点を養い、国際的視点を養う。
NHK合唱コンクールでは全国優勝。普通はカリスマ顧問がいて、休みの日もカリスマ顧問の指導に導かれ・・・ではなく、生徒自ら工夫をしまくり、各部員がそれぞれに思ったことを語り合い、それを部長たちがまとめて綺麗な歌声を奏でる、という練習をしているのです。
「System Of Systems」の極めです。
しかも、その高校、夕方5時過ぎが完全下校の時間。ですので短い練習時間に集中し、全国一を極めているのです。スゴいですね。
昔は、都立高校の滑り止めだったそうです。でも今は、素晴らしい教育をして子ども達を育てていますので、東大合格者数は女子校の中では桜蔭高校に次いで二番目になっており、医学部進学ではかなり上位を走っているとのことです。
そんな素晴らしい高校に、簡単にサクッと入学できたのではないのです。
偏差値からすると奇跡の合格となります。とても、とても、合格できる点数では無い・・・。
本人も頑張ったのですが、回りも頑張りました。
高校受験勉強が始まったのは夏休みから。
東京の塾、SAPIXへお盆を除きほぼ毎日通い、9月以降は毎週日曜日通いました。
塾の先生も親切で、熱心で、丁寧な指導を受けました。
12月下旬ごろからでしょうか、娘が私に数学の問題を質問するようになりました。
私、かつて大学受験で数学で全国一位を何度もとりました。そんな私が高校受験の問題を解こうと半日ぐらい頭を唸らせたこともあります。中学の数学、結構難しいです。
数学の問題を娘と解き会いながら、数学のディスカッションをしました。
ディスカッションしてみると、娘は意外と数学のことを理解しており、数学的考察ができていました。頭あまりよろしくないと思っていた娘が、意外と頭が良いと確信しました。
「おまえの試験結果が悪い理由がわかった。それは、練習不足。練習が足りないから、できるのにできない。だから、この2週間を集中して勉強すれば、必ず合格できる。お前は意外に天才かもしれない。だから、大丈夫!」と娘に伝えました。
娘、ラストスパートで頑張りました。
試験当日の朝、娘からの電話がかかり、「集中してやれば、絶対に合格する。大丈夫!」
と伝えました。そして、娘は努力して自ずから奇跡をたぐり寄せて合格したのです。
私は、娘の受験勉強期間、縁起担ぎで断酒を実行しました。
その結果、体重が76Kgから長年目標としていた72Kgを切ることができました。
私のダイエットが上手く行ったのは娘のおかげ!
娘が合格したのは、私の断酒のおかげ!
昨日、1月17日。平成最後の1月17日木曜日です。
早いものです、1月中旬から下旬となります。今年も残すところ350日ほどとなりました。
走っていると長く感じられることが、振り返ってみると早く感じられます。
阪神淡路大震災が起きたのが1995年1月17日のことです。今から24年前になります。
その時の早朝、今でもくっきり覚えていますが、テレビをつけてみたら高速道路が折れて横倒れになっている風景が静かに目に飛び込んできました。
その頃、私は東京の病院に勤務していました。そして、私が医療ボランティアとして神戸へ向ったのが、震災から1週間後のことでした。1週間、私が留守にしている間を調整する期間です。新幹線に乗って到着した大阪は、何も起きていなかのような普通の風景でした。
しかし、阪神電鉄で青木(おおぎ)という駅までしか通っていませんでしたが、その駅を降りて現地に歩いて行く途中の風景、二階建て家の1階部分が壊れて、圧迫骨折状態でした。
1階で寝ていた人たちが圧迫死したり、クラッシュシンドロームになったりしました。
「生きとったぁ~!」と久しぶりの対面で、涙を流しながら抱きしめ合う神戸市民たち。
地震後の火災で肉親を亡くし、助かったことを「ゴメン、ゴメン」と悔いる神戸市民たち。
自分の親を震災で亡くしながらも家に帰らず、不眠不休で医療活動をした仲間たち。
何もないことの有難みを教えていただきました。
つながりが大切であることを教えていただきました。
「あの刻(とき)のことを 忘れない」 重たい言葉です。
1995年、この阪神淡路大震災以外にもオウム真理教によるサリン事件がありました。
そして私にとっても重たい年になっております。父・松永春二が交通事故を起こし鴨川の大病院に入院し、身体も頭も壊れて行きました。
つまり、1995年は私が千倉へ戻るきっかけとなった年になります。
当初、松永春二・松永医院を閉院するために患者さんの紹介状を書きに戻ったつもりです。
結局、1997年に父・松永春二が亡くなり。私が、松永医院を継承することにしました。
1月18日(金)、年1回笑顔グループスタッフに私の思いを伝える日です。
夜6時30分から館山にある老人保健施設・夢くらぶでお話しをさせて頂きます。
スタッフ全員なので、保育室も開けて、相当の数のスタッフが集まります。
かつて亀田メディカルセンターから来た研修医が、「先生のやっている医療は素晴らしい!しかし、現場のスタッフ全員に先生の思いが伝わっているかどうかわからない。だから、年1回は先生の思いを伝える日を作った方が良いです。」と助言を受けました。
私は素直ですので、実行しました。今年で何回目になるでしょうか。
10回目ぐらいでしょうか。私の思いを150人を超えるスタッフが聴いて、思いを共有していただき、患者さんが少しでも元気になり、笑顔が増えるよう、より良いチームケアを提供したいと考えます。
一人の百歩より 百人の一歩
その他にも、安房医師会理事としての次年度の計画を考えなければなりません。
私の母校である忽戸小学校の再利用に関しても、検討しなければなりません。
やること山盛りです。ギアアップしながら、一日32時間365日垂直登坂をしたいです。
今から50年前、1969年1月18日、東京大学安田講堂事件がありました。
その安田講堂をぶっ壊した学生達が、50年経った今、未来を語るために安田講堂に再び集まりました。
東京大学もよくぞ安田講堂を貸してくれたものだと感心します。
東京大学、Universityです。学問の府です。知的な、荘厳な雰囲気があります。
私の母校、東京医科歯科大学、御茶ノ水駅のすぐそばで便利ですが、キャンパスはなし。
一応UniversityとなっていますがCollege、医師養成学校と言っても良いかもしれません。
特定非営利法人 在宅ケアを支える診療所・市民全国ネットワーク
学生運動、今となっては死語です。政治のことを語る学生はごく僅か、絶滅危惧種です。
かつて私が学生のころ、私が卒業した大学は二つ、一つ目の大学のころは酒を飲み交わしながら生き方、政治のことを机を叩きながら、唾を飛ばしながら話したものでした。
二つ目の大学のころ、医学生なのですが、バイトがあるからと言ってみんなが集まる機会は減り、呑みに行こうといってもカラオケに行ったりと、自分の思い、考えを吐き出す機会はほとんどありませんでした。上っ面でしかつながっていないような感がしました。
学生運動、私が大学に入ったころは既に絶滅状態でした。
総合大学の構内には、「勝ち取る」とか「闘う」という文字の入った看板が散見されるぐらいでした。何か異国の風景を見ているような気がしました。
学生運動、何か危険な活動をしているようなイメージがあります。
学生運動、何かぶっ壊して、新たに良いものを創ろうとする運動のような気がしました。
学生運動、理想のため、人間としての誇りを守るため、敢て滅びる美学を求める運動をしたような気がします。
学生なのに、日本を変えようと活動しました。
いや、いや、世界革命を起こそうとしていたのです。
今となれば絶滅種です。それが、現在70歳前後の団塊世代の青春時代だったのでしょう。
「2019団塊・きみたち・未来」というテーマでした。
東京大学安田講堂事件から丁度50年という節目ということもあり、面白い論客が集まりました。
医師だけでなく弁護士、教授、社会活動家、国会議員も参加し、鎌田實先生が最後を〆ました。
私が尊敬する、介護の世界のスーパースターである三好春樹さんも語りました。
三好さん、高校中退です。あんなに優秀なのになぜ高校中退なのか。
座長をした中嶋先生、千倉に来て一緒にアワビを食べたのですが、国立大学医学部中退です。
その理由がわかりました。「自己否定」です。これは滅び行く学生運動においては大切な行動だそうです。
傷つき敗れていく仲間がいる中で、自分だけが権威を持ち、力を持つわけにはいかないと、敢えて中退をして地べたにもどり、生きて行くという行為だそうです。
滅びの美学、反骨精神、自己犠牲、人と違う生き方を狙う、プライドを一番大切にする生き方
私が求めたい生き方です。
私の先輩たちには、そんな生き方をした方が多くいました。
そんな武骨な人たちが集まったこの会に、若者が非常に少なかったことが気になります。
東京大学で行われたのに、参加した東京大学の学生はたったの一名。
一人いて良かった。。。とも考えられます。
次第に戦争の臭いがしてきている日本で、何かをしなければならないという思いを持った会でした。
昔は、正月だからといって家に帰る必要もなく明治神宮を参拝し、大学入学式あるいは卒業式だからといって親は出席しませんでした。子供が多く、行事に参加できなかったからです。
今は、子供が少なく、家族力が低下しているので正月は家族全員が集まるべきだと考えています。
ほとんどのおジイちゃん、おバアちゃん、人生の最期を自宅で過ごしたいと願っています。
しかし、在宅死亡率は異状死を含めてたったの約13%。ですので、自宅で家族に囲まれながら看取られるのはおそらく8%ほどと悲惨な状況です。
施設はドンドン造られ、家に帰りたいと言っているおジイちゃん、おバアちゃんが収容されて行きます。ならば、自宅で過ごすことのできるシステムを作ろうと考えて、創ってきたこの20年です。望むところで生き切ることのできる社会を創ろうと努力して来ました。
自宅で過ごす高齢者にとって、正月など関係なく毎日が毎日です。
でも、スタッフのことを考えると、正月ぐらい家族と過ごしていただきたいと考えます。
家族を守るために仕事をし、逆に家族に支えてもらえながら仕事をすることができます。
デイサービスセンター「あそぼ」、日曜日も、夏の暑い盆でも運営しています。
ヘルパーさん、訪問看護師さんが、土、日、休んでもらうためにです。
在宅療養困難な患者さん、日曜日、「あそぼ」を使っていただき、支えるためです。
デイサービスセンター「あそぼ」が唯一休むのが、年末年始だけです。
じゃあ、その年末年始、在宅療養困難な在宅患者さんを支えるのは誰ですか?
それは、老人保健施設「夢くらぶ」なのです。
正月を含めての年末年始、在宅療養困難な患者さんは「夢くらぶ」にショートステイしていただいております。年末年始の約1週間、自宅で過ごすことが危ない、かなり弱ってしまいそうな患者さんは、サービスが手薄になる年末年始を「夢くらぶ」で過ごしていただきます。
認知症対応型小規模デイサービス「おかげさま」も、年末年始はお休みです。
認知症で独居、昼夜逆転しそうな人、徘徊しそうな人、食べることを忘れてしまった人
これまた、「夢くらぶ」へショートステイします。
「夢くらぶ」にとっては、在宅療養困難な日頃利用していない人が突然ショートステイに来ますので大変です。馴染みの空間、馴染みの人間関係ができていないので、混乱します。
特に認知症の人は、なにがなんだかわからなく不安になり、朝から寝るまで帰宅願望です。
認知症で独居のオバちゃん、典型的アルツハイマー型認知症で進行しています。
食べることを忘れているので自宅にいると何も食べないで布団でゴロゴロ、昼間寝て夜ゴソゴソしているので昼夜逆転となってしまいます。そのおバアちゃんがショートステイ。
「ここは、どこ?」「何で、ここにいるのですか?」「家に帰してください!」
「なぜ、帰してくれないのですか?」「私、何か悪いことをしたのですか?」
「とにかく家に帰して下さい!」
こんな会話を、朝から夜遅くまで、時には深夜にまで永遠にしています。
しかも、あちこちで失禁し、便失禁までしています。
そんなおバアちゃん、おジイちゃんが多くショートステイする年末年始。
正月関係なく在宅支援施設として、リハビリをして在宅復帰を目指し、ショートステイしながら在宅療養を支援している老人保健施設「夢くらぶ」に感謝します。
しかも、「夢くらぶ」では山羊を飼っており、そんな山羊を飼っている老人保健施設は日本ではたったの2つ。スゴいでしょ!
約40年前、私が安房高校を卒業し、お江戸で初めて住んだ街が新宿二丁目。
伊勢丹があるのは新宿三丁目、隣です。新宿二丁目は夜の町、LGBTの街です。
その頃は銭湯の時代、お風呂に入っていると女性が・・と思ったらオチンチンが付いている。。
その下宿、大学からの紹介・・・。田舎から出てきた少年平太は全てに驚きました。
アパートというより襖の下宿部屋、女禁の男のみ、しかも門限が夜10時半。危ないから。
通学路が高野パーラー、紀伊國屋、伊勢丹がある新宿通りでした。スゴいでしょ!
そこに昔からある焼き肉レストランがあり、40年経った今も流行っております。
気になって、気になって、一度食べてみたいと行ってみたら行列、未遂に終ること数回です。
とうとう、2018年年末、食することができました。名前が長春館という韓国焼き肉やさん。
それでは、年末年始に食したものを紹介
お茶の水、文豪が執筆するために泊ったという丘の上ホテル
そのかき揚げ天丼、海老がタンマリ入っていました。
2018年年末、松永醫院の大掃除の時に食べた 年越し鍋焼きうどん
うすやさん、ご馳走様でした。美味しかったです。
村田屋さん、ご主人が骨休めとのことで、来年はよろしくお願いします。
うどんを食べたあとは、正月、やはりミカンでしょ!
年末、ご主人様と鉄板焼きをお江戸に
はじめのビール
イカと下仁田ネギのソテー
この下仁田ネギのソテー、絶品でした。
牛肉ソテーはプロの味、流れる石です。
〆はやっぱりガーリックライス!最幸!
そして、正月が終り、体重76Kg。正月太り、例年3Kg、今年は2Kgに抑えられました。
人間弱い・・・。思うようにならない・・・。それが人間。
2019年に入り、フンドシの紐を締め直し、今週から糖質制限スタート。
リンガーハットの野菜スープと餃子
2019年元旦は年賀状作成で始まりました。
プリンターの調子が悪くなり新品に取り替え、例年は写真を多く入れて作っていたのを
今年は文章のみの年賀状にしました。みなさまにも紹介します。