私は3人兄妹の次男、アルファー、ベータ、ガンマのギリシャ文字から二番目のベータより平太という名前が付きました。
だから、昔から私のことをよく知っている通の患者さんは、「ヘータくん」ではなく「ベータくん」と私のことを読んでいます。
「ベータくん」と私のことを呼ぶ患者さん、父から受け継いだ大切な患者さんでもあります。
私の父・松永春二は外科医であり、キョーレツなドクターでした。とにかく怖い。
私は殴られっぱなしでした。なぜか軍医上がりと呼ばれ、敵と味方をつくる医師でもありました。
そんな父を慕って来る患者さんは、強烈な松永醫院のファンでもあります。
だから、私は父から引き継いだ患者さんを「10円玉の恩」精神で大切に診るしかないです。
普通ではできないところまで、するしかないです。
キクさん、私をベータくんと呼んでくれる有難い患者さんです。
私が小さい時からいろいろ面倒をみてくれて、私が千倉に戻ってきたことを大変喜んでくれた覚えがあります。
有難い患者さんです。
同居する息子さんは私の大先輩で、私が小学校のころに卓球を教えて頂き中学、高校、大学と卓球部に入るきっかけ作ってくれました。また、私の長女が千倉中学卓球部に入り、この中学3年間、水曜日の夜の卓球教室に通い指導を受けました。
そんなキクさん、突然脳卒中に襲われてしまいました。
意識障害、左片麻痺、寝返りもできない寝たきり状態、経鼻経管栄養状態となってしまったのです。
入院中、尿路感染症、敗血症にもなりどうにか一命を取り留めることができました。
脳卒中になると約半分の患者さんが嚥下障害を起こし、その10分の1の人が継続的に嚥下困難な状態が続いてしまいます。
ということは、嚥下障害を起こした10分の9の患者さん、ほとんどの患者さんは再びお口から食べることができるようになるのです。
脳卒中を起こした後に嚥下機能はボトムに落ちて、経管栄養となります。
しかし、ほとんどの経管栄養は脳卒中発症後1~2ヶ月かけながら離脱することができます。
どんなに重度の嚥下困難になっても、経管栄養が離脱できる可能性は残ります。
キクさん、脳卒中発症後10日目にして嚥下困難、勝手に在宅療養困難の烙印を押されて、長期療養型病院を紹介されました。
長期療養型病院、人生の最期に過ごすには厳しいところです。自分自身も、私の家族も、行きたくない行かせたくないところです。
困ったキクさんの息子さんが相談に来ました。今やれることをやってあげたい・・・っと。
キクさん、和服を着て、お花が大好きでした。人が喜ぶことをしてあげることが好きでした。
耳が遠く、マイペースで過ごすのが好きで、当然、病院ではなく自宅が大好きでした。
「家に帰ろう」と私は語りました。それがキクさんの望むことで、一番の親孝行だと思う。
家族もしてあげられることはしてあげたいと考えています。
絶対にその方が良いに決まっています。だって、やることやれば悔いが残りません。
こんなに重度の寝たきり高齢者が家に帰るのか・・・。と不安になります。
でも、8~9割の人が家に帰れます。ほとんどが家に帰れるのです。
家に帰れるのかどうかは、家に帰らなければわかりません。
ご本人は家に帰りたがっているのに、不安におののいている家族が「何かあったら・・・。」
ご本人の希望を聞きもせず、病院のMSWが「共倒れになったらいけないから・・・。」
家に帰らなければわからないのに、チャレンジもせず、「在宅の限界」と決めつけています。
在宅の限界は、病院の中ではわからなく、自宅へ帰らなければわかりません。
親は自分のために子ども達が犠牲になるのなら、潔く施設に入っていくでしょう。
自宅へ帰って何かあったら、全て私が診ていきます。だから、大丈夫。
キクさんの在宅復帰へのリハビリ、これから始まります。
あの時の10円玉の恩を返します。
私の少年時代は、とっても貧乏だった・・・。
開業医の息子だけどお小遣いはゼロ、何も買うことができませんでした。
回りの同級生は月300円とか自由に使えるお小遣いをもらい、駄菓子屋で買い物をしていました。
放課後、友達とサッカーをして、駄菓子屋に行きます。
友人はジュースとお菓子を買い、私は黙って正面を向き、しかし目は横に座る友人のお菓子を凝視していました。ジロッ、ジロッ、ジロッ。
そんな私を見かねた友人のお母さんが、「嗚呼、平太や、これで好きなものを買いなさい!」。
っと私の手のひらの上に10円玉を乗せてくれたのです。
あの頃、少年平太は甘納豆を買ったような覚えがあります。
人間、困った時に差し出してくれた手の温もりのことを何だか覚えています。
有難いです。
いつの日か、その恩を返さなければ。。。
お腹を空かせていた時にもらったパン。
寒い時に差し出してくれた温かいスープ。
手のひらの上にもらった10円玉。
有難いという思いだけはしっかりと覚えていますが、具体的に10円玉を誰からもらったのかは覚えていません。
忘恩、恩を忘れてしまう、これだけは避けなければならないことです。
私が鼻垂れ小僧のころから私を知っている患者さんが松永醫院に通っております。
父・松永春二から受け継いだ大切な患者さんとなります。
私が学生時代にお世話になった学校の先生も来られます。有難いことです。
同級生だった友人の親もたくさん来られます。
もしかして、あの時の10円玉を下さった方なのかな・・・。
っと思い、恩返しすべき時と考え、心込めて診させて頂いております。
松永通信「えがお」は、春夏秋冬、年4回ほど発行されています。
しかも、松永通信「えがお」は、白黒、手書き、刷り版風の通信となっています。
時代はパソコンを用いて、写真、スタンプをたくさん散りばめたカラフルな通信が普通。
「時代遅れ」という言葉が大好きな院長。社会がドンドン便利になっている現在、何か大切にして守らなければならないものが消えて行っているような気がします。無駄と思われているものの中に、温もりが詰まって残るべきものがあるような気がします。
そんな、メランコリックな院長の思いを理解してくれる松永醫院の優秀なスタッフが、
外来の混雑している待合室で、待っている間に読んでもらおうと書き始めた通信です。
私が指示して書き始めたのではなく、スタッフが自発的に書き始めた通信です。
私は患者さんには「えがお新聞」と言っております。
「えがお新聞」には、昭和の臭いがプンプンすると思います。
嬉しいですね。有難いですね。大切にしたいです。
自慢の
松永醫院通信「えがお」 御笑読下さい。
では、10月発刊の最新「えがお新聞」を紹介します。
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それにしても、このオッサンは誰???
1週間のデンマーク研修から、カズコさん、アケミさんが帰ってきました。
日曜日に成田を発ち、土曜日の午前に成田に戻ってきたのです。
その日本に戻ってきた土曜日の午後には仕事を再開しています。
「おかげさま」(認知症対応型デイサービス)にて
カズコさん:「クニコさん、ただいま!」
クニコさん:「うっせ~!(うるさい)バ~カ」
回りの利用者:「あんで、そんなこと言うんだぁ~」「バカって言う人がバカだ!」
クニコさん:「どーさ行っていた?」
カズコさん:「デンマークですよ」
クニコさん:「どこのデンマーク?」
時差ボケも、認知症ショック療法で日本時間に直ぐに戻ったようです。
それにしても、カズコさんとアケミさん、目の輝きが違っていました。
ちょうど一年半前の私の目の輝きを思い出します。
松永醫院の松永通信・「えがお」
7月号が私のデンマーク研修に関するお話しが載っています。
御参照下さい。
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