普通、診療所は一人医師が普通です。
私たち夫婦はともに医師のため、常勤医師二人の診療所となります。
吉岡先生が来られましたので、常勤医師三人の診療所となりました。
南房総市には富山国保病院という市立病院があり、内房の富山地区住民の命を守ってくれています。
院長は鈴木孝徳先生で、私と同年齢です。
24時間、365日の救急医療、病棟、外来もこなし、在宅医療も行い、検診・人間ドックの予防医療も提供しております。
南房総市立富山国保病院(http://www.tomiyamakokuho.com/)
富山国保病院は、一つの理想的な地域医療を提供している病院です。
その富山国保病院の常勤医師数は、たったの三人です。松永醫院と同じです。
たった三人の常勤医師が、不眠不休で地域の命を守り、命の安心安全を提供しています。
脱帽します。
常勤医師が三人いる重さを感じています。
地域貢献、地球貢献するポテンシャルは非常に高いです。
医師三人のうち、女医が二人。女性として、母親としても務めています。
そんなこともあり、医師としてフル活動することができません。
今しかできないこと、今だからこそ蓄えることのできることを、たくさん蓄積して下さい。
ちなみに、「女医」という言葉はありますが、「男医」という言葉はありません。
笑顔グループは、ジョイフル、女医フルでガッチリです。
現在、松永醫院の外来は原則医師二人体制で診療をしております。
今まで、二代目ヘッポコ田舎開業医として普通の医師の1.2倍ほどの仕事をこなしてきたつもりです。余裕なく、ギリギリの状態でした。
そこに優しくて優秀な吉岡先生が登場!
すると、患者さんはすぐに増えませんので、私の仕事量は0.6倍と半減します。
私は、暇になりました。暇が生まれれば、今度は工夫が始まります。
今、松永醫院がだんだんと面白くなって来ています。
まずは、簡単に、私たち医師の紹介をします。
私は松永平太、二代目ヘッポコ田舎開業医です。何でも屋です。
「専門は何ですか?」と質問されると、私は「専門なんか内科!」と答えています。
内科を中心に研修を行い、途中外科も少しばかり勉強もしました。
さあ~これから専門の勉強を行おうとした時に父がぶっ倒れたのです。
松永真美子先生、我がご主人様はかつて大学病院で働いていて、内科、消化器、肝臓の専門医であり、消化器内視鏡の専門医でもあり、産業医の資格までも持っているマルチタレントドクターなのです。
吉岡玲奈先生、優しくて優秀であるだけでなく、謙虚な先生でもあります。
内科、特に呼吸器内科を専門としていますが、女医さんでもあり小児も積極的に診ていただき、在宅医療も手伝って下さっています。
吉岡玲奈先生が来て下さったおかげで、外来の余裕が生まれ、患者さんとゆっくりお話しをするができるようになり、待ち時間の短縮が可能となりました。
診療の質が上がったのです。
また、自由な時間を作ることができるようになったので、様々な工夫をしています。
水虫菌の顕微鏡検査、エコーガイド下の生理食塩水を用いた筋膜リリース、整形内科のチャレンジなど、診療の幅と質が上がったのです。
松永醫院のすごいところ、医者が3人もいることです。
いのちを助け、いのちを元気にさせ、いのちを輝かせる医療を目指し、努力して行きます。
いのちを支え、最後の最期まで生きて逝くまで、QOD(Quality Of Death)を目指し
責任ある医療を提供します。御期待下さい。
松永醫院は、すでに良い診療所になっていると思います。
でも、もっと、もっと、良い診療所になるよう、これからも勉強し、努力し、工夫をし続けて行きます。
楽しみにしてください。
1995年、父・松永春二がぶっ倒れ、松永醫院を閉院しようと、患者さんの紹介状を書きに戻りました。
けれども、父を慕っていた患者さんの思い、父を支えてきたスタッフの生活のことを考えると、松永醫院を閉院することができませんでした。
千倉を捨てて都会に出て行ったつもりの私が、再び千倉へ戻る決心をしたのです。
あれから約20年、振り返ってみると月日の経つのが早いものです。
この20年間で、私は、松永春二・松永医院を引き継ぎ、松永平太・松永醫院を創り、松永春二の遺志を引き継いで千倉のために医療活動をしてきました。
診たら責任持った診療を提供し、最後の最期までいのちを支える。
「先発完投型医療」、とか、「人生丸ごと応援医療」と呼んでいます。
田舎二代目ヘッポコ開業医の魂を誇りにして、より無色透明のゴチャマゼケアを目指しております。
松永醫院の底力、松永醫院のすごいところを、10回程度になるでしょうか、皆さまに紹介しようと思います。
まずは、そのすごいところをSummaryにしましたので紹介します。
今週も忙しかった!っと思いながらも、睡眠時間はとっているし、アルコールも飲んでいます。
人生において、今が一番社会貢献しなければならない時期かもしれません。
月曜日、介護認定委員会がありました。私たちの介護認定合議体は5人、そのうち3人が医師、介護関係の医師会理事OGと認知症専門医であり医師会理事も務めているOGと私との3人です。あとの2人は、地域包括支援センターに勤める介護・福祉関係のリーダーとなっている方と、見てくれがカッコ良く爽やかな老人保健施設で働く男性看護師です。
なかなか面白いメンバーに囲まれながら、楽しい介護認定を行っております。
一次判定を変更するケースは30%を超えていて、異常に変更率が高いメンバーのようです。
虐待の可能性がある場合には調査を依頼し、閉じこもり傾向の高齢者には通所サービスを利用するよう促し、2次判定と介護認定委員会としての意見を付記しております。
火曜日、高齢者を中心に認知症のお話をしました。
運よく癌になるか事故で若くして死ななければ、いつかは歳を取り、虚弱高齢者になり、介護保険を用いて、いつかはボケてしまうものです。
どうせボケるなら、できるだけ遅らせて、ゆっくりと、穏やかに生きましょう。と。
何度言っても聞き入れてくれない悲しさ
何度も同じことを聞いてくる苦しさ
家族は必死になり、「しっかりしろ!」「がんばれ!」と言い続け
「今日は何月何日?」「この人は誰?」と攻めまくる。
あんなに仲の良かった親子関係、嫁姑関係が破壊され、修復不能状態となってしまいます。
認知症は、人間関係を破壊する可能性の高い悪性疾患かもしれません。。。
ご本人は、認知症という永遠の旅路に発ってしまっています。変わりようがないのです。
変わらなければならないのはご家族の方で、いつも私がお願いすることは
「叱らないでね。」「否定しないでね。」「責めないでね。」、これ大切です。
水曜日、いつものようにアクアラインを通り、お江戸で研修。
千倉へ帰還するのが、午後10時過ぎです。
木曜日、亀田メディカルセンターからの研修医が地域医療の研修で来られました。
土曜日までの3日間、いのちを支える医療、先発完投型医療、人生丸ごと応援医療 を学びに来ました。
夜は、小中学校主査、事務長会で「生きてきたように、死んでいく」という話をしました。
小学校時代からの悪友からの講演依頼なので、気持ちよく引き受け、一生懸命に話しをしました。
いのちに優しく、こころ豊かな、しあわせを感じられる社会を創りたいですね。
そんな思いを1時間以上にわたって、お話しさせていただきました。ご苦労様でした。
本日、金曜日、亀田メディカルセンターから来られた研修医・伊豆倉先生に地域包括ケアであるゴチャマゼケアを伝えました。
10年未来のいのちを守ること、医療の最終責任者は医師であり、無色透明のゴチャマゼケアの大切さを伝えたつもりです。
伊豆倉先生、熱き思いを前面に出して突き進んでいくタイプではなさそうですが、青白い炎のように静かに燃え、いつの間にかあるべき道へ導いてくれる医師のようです。
「寄りそ医」を目指したいと言っていました。期待します。
開業医は密閉社会に陥る危険性があり、かび易い、腐り易い、縮小し易い、バランスが崩れ易いという危険があります。研修医は、閉じ切った部屋に吹いてきてくれるそよ風です。
研修医は、よどんだ空気をきれいに入れ替えてくれて、外から種を運んできてくれる有難い存在です。
20年以上ぶりに卓球をしました。実は、私、東京医科歯科大学卓球部の主将でした。
大学を卒業してからの約四半世紀、途中温泉旅館に泊まった時にピンポ~ンをしたことがありましたが、卓球を忘れていました。
卓球、英語でテーブルテニスと言うそうですが、これは間違っています。
そうじゃなくて、テニスを英語でグランド・ピンポンと言うのです。と私は信じています。
私の卓球は、伊藤良則(いとうよしのり)先生から始まりました。
私が小学生の時、近くに住んでいた伊藤良則先輩が簡易に並べた台で青空卓球を行ったのが始まりです。
中学校では県大会2,3回戦止まり、でも地区新人戦では準優勝だったか。
高校は高校2年生の途中まで所属し、どうにか県大会出場レベルでした。
大学では、生活費は自分がバイトで稼いでいましたので、卓球部に所属していましたが練習にはあまり参加できませんでした。
しかし、1年生の時に関東医科新人戦で準優勝。
でも、1年後輩に全日本大会に出場するようなビックな選手が入ってきましたので、私は霞んでしまいました。
結局、彼は全日本医科大会6連覇で卒業して行きました。
千倉に戻ってからは、卓球同好会の練習に参加したのは1回、卓球同好会の忘年会などに時々参加するというアフターピンポン活動に精を出していました。
この卓球同好会、私の始まりである伊藤義則先生をはじめ、日頃お世話になっている斉藤ご夫婦が中心に20年以上運営されてきました。
継続は力なりですが、スゴイことです。
尊敬申し上げます。
日頃、3.999Km走っている私は、体力には自信がありました。
その日も卓球の練習をする前に3.999Km走り、汗を流して身を清め、夜7時半からの練習に参加しました。
練習を始めて1時間もたたないうちに、ジョギングした時よりも多くの汗をかき、フラフラ状態となってしまいました。
後半の1時間は練習見学をしていました。
私のラケットはペンホルダー、買ったばかりのラケットなので持ちやすくするためにグリップを削ることもせず、振り回した1時間でした。
疲れました。とっても疲れました。でも、筋肉痛は起きませんでした。
歳を取ってもできるスポーツ、家族でできるスポーツ、脳卒中になってもできるスポーツ
雨が降っても、夜でも気軽にできるスポーツ、温泉旅館に行ってもできるスポーツ
リハビリ室で大きな声で「よぉっしゃ~!」と叫ぼう。。。リハビリ室でヒーローとなろう!
本日は七夕。みなさんは何を願いますか。
私は、みんなが平和で幸せを感じられる社会を願います。
バングラディシュで発展途上国のために尽くしてきた日本人が亡くなりました。
豊かで平和な日本を離れて、貧しい国の幸せのために、自己犠牲を払いながら尽くしてきた優しくて優秀な日本人が不条理にも亡くなってしまいました。ISによるテロだそうです。
ご冥福をお祈り申し上げます。
昨年、パリ同時多発テロ事件で100人を超す犠牲者がでました。
何の罪もない、昨日までは普通に生活をしていた市民が突然亡くなったのです。
ご本人、ご家族にとっては不条理な死です。悲しみと怒りに、社会は包まれました。
やはり、ISによるテロです。
アメリカ、ロシアなど怒った大国は、報復でISにロケット弾を打ちまくっております。
しかし、テロは繰り返されています。犠牲者がどんどん増えています。
どんどん怒りの増幅が起こり、おさまる気配はないです。
世界のほとんどの人は、テロリストであるISに対して報復することを認めています。
報復することにブレーキをかける人は、ごく少数しかいませんでした。
報復の連鎖は、犠牲者を増やすだけで、解決にはならないのです。
イスラエルとパレスチナ、戦いあって50年以上が経っております。
国土を盗られたと怒っているパレスチナ人が、イスラエルに石を投げつける。
すると、怒ったイスラエル人が軍事用ヘリコプターからミサイルをパレスチナに打ち返す。
圧倒的な軍事力の差があっても、未だに戦いが続き、平和にはほど遠い状態です。
パレスチナ・テロリストが市民の中に紛れ込んで、テロを繰り返しています。
今は、国と国との戦いではなく、見えない敵であるテロリストとの闘いとなっています。
世界中の市民の中にテロリストが潜んで、どこにいるかわからなく、いつ起きるかわからないテロを企んでいるのです。
不条理な犠牲に怒るのは理解できます。
しかし、やられたらやり返すの論理で報復すると、報復合戦が始まります。
報復合戦からは、憎しみの連鎖が生まれ、不条理な死が増えるばかりになります。
悲しみ、憎しみの増幅です。平和から遠ざかるばかりです。
戦争を起こすという人間の本能をコントロールするために、私たちは理性と冷静な心を保たなければなりません。
平和は与えられるものではなく、平和を維持するために私達は努力しなければなりません。
空気中の酸素に感謝の気持ちを持つように、当たり前に思っている今の平和に感謝しよう。
この週末、戦争できる日本を作ろうとしている安倍首相にNOと言いませう!
熱い二日間となりました。いのちに関して考える二日間にもなりました。
社会は、優しさ、温もり、しなやかさを大切にする社会を求めて行きたい。
っと、野田聖子衆議院議員のお話を聞きながら、いのちに関して考えました。
政治は弱者のためにあるものなのに、強さを求めて強者のための政治になっているような気がします。
弱者を助けてボトムアップする社会を求めたい。
野田聖子さん、彼女が50歳で出産した子供は医療的ケアが必要な重傷心身障害児であるというお話を約50分間聞きました。感動的でした。
医学、医療の発達のおかげで、昔なら亡くなっていた赤ちゃんが助かる時代になりました。
遺伝子異常トリソミー、超未熟児などの赤ちゃん側の問題であったり、妊娠中毒症などの母側の問題であったり、出生児1000gの体重があれば生きることができる時代になっています。
そのため、少子化で子供の数が減っているにもかかわらず、障害児は増えてきています。
障害児の特徴は、高齢者と違って成長し、親が守ってくれることです。
生物学的には難しい「この子を残しては死ねない!」という母親の叫びがあるのです。
野田聖子さん、妊娠を確認したときから、出生前から子供の障害を告げられ、生きて生まれてこれるかわからない、生きて生まれても抱きかかえられながら亡くなる可能性を告げられていたそうです。しかし、野田聖子さんは与えられたいのちを大切にして生きようと決めたのです。
計11回の全身麻酔下の手術。口唇口蓋裂、ファロー四徴で心臓、肺、食道胃分離などの手術。
心肺停止2回。その上、血栓で左脳梗塞、右片麻痺となってしまいました。
でも、現在、息子さんは5歳6か月を迎え、笑い、歩けるようになっていました。
レストラン経営していた夫が仕事を辞め、24時間ともに一緒になって息子のために費やした5年6か月にもなります。
障害児を守るのは、普通は母親が99%、仕事を辞めなければならないのが95%だそうです。
現在の障害者総合支援法は、軽度障害児に光が当たるが、医療的ケアが必要な重度障害児にはサービスがあっても使うことができない現状があることを知りました。
また、成長、教育と学校などに関して相談しなければならない窓口がたくさんあり過ぎて、調整することが大変だそうです。
私たち、在宅医療も提供する医師としてNICUから自宅へ退院する子供たちも診ます。
障害児の在宅医療は、高齢者の看取る医療と違って障害児の成長を支え、家族の相談を受け、社会的なコーディネートする前向きな医療です。病気になる、死ぬことと対峙する医療です。
だから、急変時には病院に搬送することになり、自宅で亡くなるケースは稀となります。
いのち、生きていればOK!だけではなく、いのちの質QOLを考慮していのちが輝くことを目指していかなければなりません。
私たち医師は、いのちを医療と福祉の両面から支えて行きたいと考えていますが、この医療と福祉の間にはよく見えない壁があるように思えるのです。
障害者はデイサービスを利用できますが、デイケアを利用することは困難。
医療的ケアが必要な重症心身障害者は、理屈からでは特別養護老人ホームを利用することができますが、夜間に看護師がいないために実質的には利用はできない状態です。
老人保健施設には、スモール病院ですから夜間でも看護師がいますし医師もします。しかし、医療施設のため、障害児は利用困難なようです。
私たち医師は、いのちの輝きにこだわります。
みんなが、優しく、温もりを分かち合いながら、しなやかに生きたいですね。
名古屋からの帰り、そんなことを考えたのです。
千倉に戻ったら暑い夏まつりのフィナーレ、平舘、忽戸、川口の3地区の山車がそろっていました。
この週末、7月2日(土)3日(日)、千倉が1年の中で最も熱くなる2日間となります。
千倉の祭りです。県北、都会へ行っている若者が返ってくるのです。
例年は7月の第2土曜、日曜日となっていましたが、今年は選挙が7月10日にあるため、
1週早くお祭りが開かれることになりました。
とはいうものの、私は祭りの参加の仕方を良くわかっておりません。
私が小さい頃、祭りがあっても、祭り前の太鼓の練習があっても、松永家では普通と同じ毎日の生活が営まれ、夜に外出することも、祭りに参加することもありませんでした。
厳しい父親の下で、オプレスされた、暗~い青春を送っていたのです。
もともと、土曜日、日曜日は名古屋で開かれる在宅関係の勉強会に参加する予定でしたが
土曜日は千倉にとどまり、千倉のお祭りを少しだけ堪能するつもりです。
日曜日は、日帰りで名古屋まで勉強をしに行こうと思っています。
千倉の祭り、お客をわが家に招待する予定です。
そのために、料理を作り始めました。肉料理です。肉祭りとなります。
皆さんは「肉派」?それとも「魚派」?私は「肉派」から「魚派」へMutationしています。
6月29日、「肉(にく)」の日です。肉が安くなっていましたので購入しました。
あと、ネットショップからも購入しました。
タンシチュー、熟成スジ肉の煮込み、それとステーキを予定しております。
タンシチュー、ベローンですね、結構美味しいのですが、我が家では人気がありません。
スジ肉の煮込みは、煮込みすぎないことが大切であることに気付きました。
途中、カレー風味とピリ辛ニンニク風味に分けていく予定です。
玉ねぎは丸ごと煮込んでみようかな。ニンジンは、子供も来る予定ですので小さめに。
糖質制限をしている私は、ジャガイモを入れるかどうか迷いつつOFF!
新ジャガが普通ジャガにMutationしております。
あとは、土曜日、お刺身を準備し、適当なおつまみを作り、
美味しいワイン、糖質ゼロのビールとサワーを飲むばかり!
本日は、7月1日。1年の半分が終わりました。
7月2日土曜日、我が家で夕陽を見ながら、祭りの太鼓の音を聞き、父の日に思わず購入したハンモックに揺られ、沈んだこともあったので、楽しい時を過ごそうと思います。