私は無事にインフルエンザにかかることもなく、元気よく医療活動をしています。
インフルエンザに罹った娘の夢(ゆめ)は今では元気になり、登校停止が5日間のため昨日まで自宅に留まり、インフル・バケーションを満喫しておりました。
本日より、千倉小学校へ登校しています。頑張れ!
私が子どもの頃、父はインフルエンザに罹っている私の尻を叩き、「学校は休むものじゃない!とにかく学校へ行け!学校に行ってくたばったら、戻ってこい!」と送り出しました。
そして、父は「お前もうつされたんだ。だから、10人にうつしたら直ぐに良くなるぞ!」と営業活動もしていました。
今は、「人にうつすことは最大限の配慮をしましょう」という時代になっております。
「発症後5日間かつ解熱後2日間は出席停止」となっています。
マスクだらけの社会にもなっております。松永醫院の受付嬢も美しい女性ばかりですが、マスクを着用しておりますので何がなんだかよく見えない状態です。
でも、マスクは大切です。
マスク着用による感染予防効果は大なのです。
⇒ こちらをご覧ください(マスク着用の重要性(インフルエンザをうつさないために))。
(外部リンク)
インフルエンザ、流行っています。私の娘もインフルエンザAになってしまいました。
私がインフルエンザに罹ってしまったらどうなるのでしょうか。仕事を休めない・・のに。
10月、インフルエンザが出ました。今シーズンはインフルエンザが早い!と思ったのですが、一発現象に終わってしまいました。
インフルエンザワクチン、今シーズンは早めに開始しました。ワクチン接種してから早4ヶ月が経とうとしています。
ワクチン接種により作られた抗体は残っているのでしょうが、かなり薄まっているでしょう。
仕事を休めない私が、インフルエンザに罹ってしまったら。。。
インフルエンザに罹っても外来診療をしたら、倫理的に問題大ありです。
ですのでインフルエンザ迅速キット検査は絶対にしません。
インフルエンザ陽性に出たら松永醫院ドウナッチャウノ状態となってしまいます。
インフルエンザに罹らないように努力をする。マスクをつける。予防する。
インフルエンザワクチン、2回接種しました。
もしかすると中途半端にワクチンが残り、破棄する予定のチョビッとのワクチンを
もったいないと言いながら3回目のワクチン接種をしたような気がします。
今回、娘がインフルエンザに罹ってしまいましたので、娘にはリレンザ吸入を
私たち夫婦は、タミフルの予防内服を開始しました。
実は、昨日、チョビッと体調が悪かったのです。
熱は測っておりません。インフルエンザ迅速キット検査、とんでもない!
でも、
午前中は東京で暴れ、午後は3.999Km走って汗をかいたら、体調は完ぺきに戻りました。
インフルエンザ、安静に治したらダメです。
体を冷やさず、体を動かして、汗をかいて治すものです!
死ぬときの最期に叫ぶ言葉「お母さん!」。決して「お父さん」ではないです。
2月16日、特別な日です。母の命日です。亡くなって19年も経ちました。
何となく涙が出てきてしまいます。
心の中の母は死にませんし、歳を取ることもありません。
次第に母の歳に近づき、母の気持ちがわかるようになり、母なのか友達なのか女性なのか
よくわからない存在になって来ております。
母の名前は「吉田イサヱ」、父「松永春二」と結婚し「松永イサヱ」となりました。
出身は長崎県五島列島の黄島(おうしま)という小さな島生まれです。母を生み取った人の名前がイサヱから名付けられたそうです。
男ばかりの兄達の末っ子で唯一の女性なので、兄達から可愛がられていた覚えがあります。
大阪日赤を卒業し、看護師になりました。かなり優秀な成績だったと聞いています。
長崎に原爆が落ちた後に援護のため長崎市内に入り、死の「黒い雨」に濡れ、原爆被爆者となってしまいました。
その後、父と出会い、変わり者の父との結婚を家族全員が反対する中、父と結婚しました。
そして、私たち「α」「β」「γ」の3兄妹が生まれてしまったのです。
何かの縁で、細くて狭いサンマの背中に乗ったら、長崎から房州・千倉まで運ばれてしまったのです。
父の荒い気性と千倉の荒い漁師気性のウマが合ったのでしょう。
私は高知生まれ、兄は長崎生まれ、妹は長野生まれ、でもほとんど千倉。というヨソ者です。
父は好き嫌いが激しく、敵味方を多くつくる医師でした。父の悪口を言う人も多かったです。
それに対し、母の悪口を言う人はいません。外来で母のことを知っている患者さんからは
母は優しかった、働き者だった、お世話になった、とお褒めの言葉をもらいます。
当時の松永医院は入院施設を持っていたので、母が日勤・準夜・夜勤と24時間365日看護師として働き、入院患者さんの食事も1日3食作っておりました。休む暇もない状態です。
母は車を運転することも、自転車に乗ることもできなかったので、いつも小走りに買い物に出かけていました。母が歩いている姿を見たことがないとも言われました。
松永医院の掃除もしておりました。そして、私たち子供の面倒もみていたのです。
母が懐かしいです。あの頃に戻れるなら戻りたい気持ちです。
でも、かならずあの世で会うことができます。だからこそ、今を精一杯生き切ります。
そんな覚悟で、私は生きてます。
母は、多発性骨髄腫という骨髄の癌を併発していました。
父は、胃ストローマ腫瘍(GIST)という悪性腫瘍を持っていました。
原爆の影響は、被爆してから50年も経ってから出てくるものだと知らされました。
母の最期は、大学病院の特別治療室で突然心停止し、心肺蘇生術を受けました。
心臓は動き始めましたが、心停止した原因は橋本龍太郎元総理大臣と同じ多発腸梗塞によるもで、どうしようもない状態だったのです。
1997年2月16日・日曜日の夕方、負け戦であることがわかっていながら、妹の外科指導医である幕内教授による執刀で術中死に至ったのです。日曜日の夕に教授に執刀・・・。
母の死を認める状態でなかったのでトコトン戦いました。高度医療の中で戦いました。
幕内先生の最期の言葉「気が済んだか・・・」、今でも耳に残っております。
母には申し訳ないことをしたと思います。
日曜日の深夜、亡き母を連れて千倉へ戻りました。
あれから19年。早いものです。
母の命日、2月16日、忘れていました。
千倉で唯一の親戚である吟子叔母さんから線香をあげなさいと言われて、母の命日が今日であることを思い出したのです。
お母さん、ごめんなさい。
お母さんのため、千倉のために頑張ります。
地域教育、学校の先生方と保護者がともに一緒になり地域で子供たちを教育することです。
そんな地域教育の第一歩を、高木校長先生から千倉小学校5年生と6年生のゴールデンエイジの子供たちに心の授業をしていただきました。
放課後子どもクラブ、学校がサポートしていただきながら保護者が運営する塾です。
子供たちに生き方を伝えて行きたいです。心豊かな子供たちに成長してもらいたいです。
第1回目として、高木校長先生しかいないと思いお願いしました。
気持ちよく引き受けていただきました。
高木校長先生、20歳から30歳までタバコを吸っていたそうです。
私の読みとしては20歳からではなく18歳からタバコを吸っていたと予測します。
法律上タバコは20歳からですが、20歳で吸っている人は吸い続けて、20歳で吸っていない人はタバコを吸うことはないでしょう。
タバコを吸うか吸わないかは、20歳で既に決まっているのです。
昔は、タバコは嗜好品。今は、タバコは利益無く百害となる毒です。
⇒ 2016年2月29日 午後1時より松永醫院にて禁煙教室を開く予定です。
高木校長先生、ほぼ毎日10Km走り続けているそうです。驚きました。
千倉小学校創設2年目の校長先生ですので、多忙極まりない状態のはずです。
それにもかかわらずジョギングを走り続けていることは素晴らしいです。
私も、週3回ほど松永醫院のランニングマシーンを使って3.999Km走ります。
冬の間、寒い空気の中で走ると喘息発作を起こします。運動誘発喘息を持っています。
ですので、温かい空気である松永醫院の中で走ります。
ほんとうは毎日走りたいのですが、忙しいという理由で週3回ほどになっています。
走ろうと思えば、深夜でも走ることができます。でも走っていません。
走り続ける強い思いを持っていなく、忙しいという理由に甘んじているのです。
忙しくても走り続けること、継続する大切さを子供たちに伝えていました。
走り始めの5分間、1Kmは辛いのですが、それを越すと楽になり、走り終わると楽しく幸せになることを語っていました。「辛い」の向こうには「幸せ」が待っているのです。
走ると体が元気になり、頭も心も活性化されます。
走りながら、いろいろなことを考えることができるようになりなす。
走り続けると自分自身への自信となり、周りからも認められるようになります。
そして、高木校長先生が偉いのはジョギングノートを付けていることです。
走った距離、体重、体調を記してデータを蓄積していることです。
ただ走るのではなく、走ることを振り返り、走ることの楽しさを堪能しています。
ベスト体重は63Kgとほぼ一定に維持し、お酒の席カッポレがあると微増するとのこと。
高木校長先生、カッポレの席、最後は寝ています。
寝ようとする意志がないので、気絶していると言った方が適切かもしれません。
継続は力なり。
継続は自信につながります。
一つのことにこだわり、打ち込むことの大切さを教えていただきました。
高木校長先生、内科的に異常値がないとのこと。素晴らしい!
でも、異常があって当たり前の年齢になって来ていると思います。
悔しいです。異常がないのは異常だと思います。
高木校長先生、お願いですが、たまには病気になって下さい!
南房総市で地域包括ケア推進会議というものが開かれました。
石井市長の言葉から始まり、医療介護福祉と関係のなさそうな各種団体の責任者までもが出席し、しなやかなつながりで高齢者を支えるチーム「南房総」を結成する会議でした。
地域包括ケアと全国で叫ばれて、あちこちで同じような地域包括ケア推進会議が開かれています。このことは逆に言えば、地域包括ケアを推進したいけど、どこもかしこも地域包括ケアが広がっていないことを意味しています。
地域包括ケアシステムとは、高齢者が住み慣れた地域で、先祖代々住み続けてきた自宅で、家族、友人に囲まれながら、その人らしく、人生の最期まで生き切ることのできるシステムのことを言います。
そして、地域包括ケアとは、自宅で最期まで過ごすためのケアのことです。
高齢者は死ぬことをそうそれほど怖がっていません。ただ、亡くなる過程において痛みで苦しむのではないか、ボケてしまうのではないか、寝たきりになってしまうのではないかと不安に思っております。家族に迷惑をかけたくないとも思っております。
ほとんどの高齢者は、苦しまなければ、迷惑をかけなければ、病院よりも、施設よりも、自宅で最期を迎えたいと願っています。
人生90年、もしかして100歳を迎える時代になってしまいました。
今の高齢者は、戦争で青春などなく、がむしゃらに働きまくり、豊かな日本になれば老後は安心になるはずだと信じて自分を犠牲にしながら社会のために生きてきました。
そして、超高齢社会の第1期生となり、歳の取り方を知らず、死に方も知らず、「申し訳ない」と言いながら寂しそうに生きています。
そんな声を聴くと、私たちの方が申し訳なく思います。
ほとんどの高齢者が人生の最期を自宅で過ごしたいと願いながら、在宅死亡率は13%ほどです。この中にはお風呂で極楽死している異状死も含めてありますので、家族に看取られながら自宅で最期を迎えることのできる高齢者は1割もいないのです。
「この状態はおかしい。絶対におかしい!」
この思いが、現在の私を押し突き進めさせてくれています。
ほとんどの高齢者が自宅で最期を迎えたいと願っています。
ならば、その思いを叶えさせる地域を創ろう!それが私のMissionです。
たとえ独居であっても、認知症であっても、独居の認知症であっても、自宅で最期まで過ごすことは可能です。中には困難なケースがありますが、自宅で過ごせるかどうかは自宅に帰らなければわかりません。ほとんどのケースは、自宅で過ごすことができるのです。
それなのに入院すると、Young DOCTORが独居だから、認知症だから、「在宅の限界」だからと言って患者さんを家に帰そうとしません。
これじゃ、みんな最後は施設に入らなくちゃならなくなってしまいます。
そして、入院期間がダラダラ長くなってしまい、体も頭もイカレポンチになり、本当に家に帰れなくなってしまいます。こんなケース、いくらでも見てきました。
本当に、地域包括ケアを推進しようと思うならば、施設で余生を過ごしたいと思っている人以外は、とにかく自宅へ帰すことです。
そして、地域でその方のいのちを守る工夫をしまくることだと考えます。
地域を信頼し、地域に託し、地域に福祉力を育てることが大切だと思います。
高齢者の思いを叶えさせること、できます。
なぜなら、松永醫院では無色透明のゴチャマゼケアを提供し、既に実践しているからです。
平凡な日常の毎日、身の回りの小さなことに感謝して生きている人は、幸せになれます。
そんなことを考えている私が、とっても良い話を聞きました。
世界で一番有名な木村さん、キムタクのお母さんのお話しです。
「育みはぐくまれ~日々の中のたいせつなこと~」
南房総市PTA主催の教育講演会で木村悠方子(まさこ)氏によるお話しでした。
2時間のお話し、私がスタッフ全員にお話しをしたのが1時間半ですので、その上です。
「いただきます。」食事の時に発する言葉です。
「いのちをいただきながら食べます。」という意味だそうです。
太陽、雨、風、大地の恵みをいただきながら食べる。
子供のように育てられた動物のいのちをいただき、私たちのいのちを支えてくれる。
そんな、いのちの大切さを感じながら、感謝の気持ちで食べれば
好き嫌いが減り、大切に、美味しくご飯を食べることができるでしょう。
「大好き!!」という言葉、「あるがままのあなたを受け入れ、守ります。」というメッセージがあるそうです。
だから親子関係がうまくいかない場合には、「大好き」という言葉をたくさん使いましょう。
「あなたの大好きなカレーよ。」「あなたが大好きな唐揚げよ。」「あなたの大好きな・・・」
そうすると素直な言葉「ありがとう」「おいしいよ」が生まれてくるそうです。
褒めることの大切さ、あなたが存在していることの有難さを伝えることです。
まず、自己肯定感を持つことが大切です。しかし、自己肯定感だけだと人は成長しません。
同時に自己否定感を持つことも大切でしょう。自己肯定感と少しの自己否定感をバランスよく保ち、プラス1%、チョビッとだけの工夫をすることが大切です。
人の体は、60兆個の細胞からできています。
自分の体は神様からの借り物、だから亡くなる時はできるだけ傷を付けずに帰すものと。
なるほど。
全ての人は、今の自分を好きになることが大切です。そう思って生きることが大切です。
意識が変われば言葉が変わり、挨拶が変わり、習慣が変わり、性格が変わり、
そして最後には、運命が変わるそうです。つまり、運命は自分で創るものなのです。
期待せず聴きに行った黄金のお話し、2時間がア~っという間でした。
私の家は代々朝日新聞。戦国時代から朝日新聞を取っています。
そんな私が浮気をしました。読売新聞を取ったのです。
本当は、松永醫院では朝日新聞、読売新聞、毎日新聞、房日新聞の4紙を取っています。
読売新聞、その中に「人生案内」というコーナーがあります。
読者が人生について質問し、その質問に専門家?が答えるというコーナーです。
とっても涙の出るお話がありましたので、ご紹介します。
【質問】
大学生の女子。
何をしていてもあのことばかりを思い出してしまいます。
あの日、私は祖母と一緒に逃げました。
でも祖母は坂道の途中で、「これ以上走れない」と言って座り込みました。
私は祖母を背負おうとしましたが、祖母は頑として私の背中に乗ろうとせず、怒りながら私に「行け、行け」と言いました。
私は祖母に謝りながら1人で逃げました。
祖母は3日後、別れた場所からずっと離れたところで、遺体で発見されました。
気品があって優しい祖母は私の憧れでした。
でもその最期は、体育館で魚市場の魚のように転がされ、人間としての尊厳などどこにもない姿だったのです。
助けられたはずの祖母を見殺しにし、自分だけ逃げてしまった。
そんな自分を一生呪って生きていくしかないのでしょうか。
どうすれば償えますか。
毎日とても苦しくて涙が出ます。助けて下さい。
【答え】
お手紙を読みながら涙が止まらなくなりました。
こんなに重い苦しみの中でどんなに辛い毎日かと思うとたまりません。
ただあなたは祖母を見殺しにされたと思っていらっしゃいますが、私にはそうとは思えません。
おばあさまはご自分の意志であなたを1人で行かせたのです。
一緒に逃げたら2人とも助からないかもしれない、でもあなた一人なら絶対に助かる。
そう判断したからこそ、あなたの背中に乗ることを頑として拒否したのでしょう。
おばあさまは瞬時の判断力をお持ちでした。
その判断力は正しく、あなたは生き抜いた。
おばあさまの意志の反映です。
人はどんな姿になろうとも外見で尊厳が損なわれることは決してありません。
たとえ体育館で転がされるように横たわっていても、おばあさまは凛とした誇りを持って生を全うしたと思います。
おばあさまの素晴らしさはあなたの中に受け継がれていることを忘れないで下さい。
おばあさまが生きていたらかけたい言葉、してあげたいことを、周りに居る人たちにかけたり、してあげて下さい。
そのようにして生き抜くことが憧れだったおばあさまの心を生かす道に思えます。