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「覚悟の瞬間(とき)」(↓ クリック!)
覚悟の瞬間 医療法人社団優和会 松永平太
2025年02月28日(金)

NEW!! 未来へ2025

今日で2月も終わります。
そして、寒い冬が終わり、日差しも強く、夏に向かっていきます。
赤◎急上昇の千倉の桜の名所である松永醫院の桜は、これから一花咲かせるでしょう。



先週、笑顔グループの次年度、2025年度の運営方針演説をスタッフ全員にしました。
理想の高齢者ケアを求め、望むところで生き切ることのできる地域包括ケアシステムが機能する地域共生社会を目指します。日本一となるでしょう。つまり、地球一です。

私は高齢化率50%の南房総千倉町で開業する二代目ヘッポコ町医者です。
患者さんから「おめえに命を預ける!」と言われれば、「まかせろ!」と言うしかない。「まかせろ!」と言った以上は、いのちを支えるシステムをつくってきたこの25年です。

つくるべきものは、だいたいつくりました。なので、基本に還ることにしました。
あとは、それぞれのケアの質を上げて理想の虹色ケアを提供し、チームケアとして協働し無色透明のごちゃまぜケアを提供するのみです。そのためには目標の共有が大切でしょう。

人生の大先輩として尊び、丁寧な言葉使いをしましょう。
高齢者ケアの三大原則を基に、いのちを支えましょう。
とにかく元気になり、笑顔あふれる仕事場に、誇り高き仕事場にしよう。

そして、元気になるためには日昼離床と起立訓練の徹底
利用者、スタッフを守るために、ノーリフティングケアの徹底
元気になれば笑顔が増え、笑顔が私たちのエネルギーにもなります。

新しい試みとしては、未来部の創設です。
笑顔グループの未来を考えるだけでなく、新たな習慣をつくり、豊かな文化をつくるという町つくり、地域の未来を創るチャレンジする部署をこれから創設します。

みんな、頑張っています。
自分自身も、約3週間断酒しました。体重が5Kg減りました。
でも、今、アルカホールと再開し、すぐに体重は漸増しております。。。

人は、人のために頑張れる動物です。
私は、本当はグータラな人間です。でも、患者さんが松永醫院で待っていると知ると、スクっと立ち上がり、全力疾走で、無呼吸で、垂直登攀で松永醫院に向かいます。

末娘のココロ、頑張ったね。












2025年02月17日(月)

森永卓郎さん

森永卓郎氏が亡くなりました。素晴らしい人生だったと思います。
見てくれは普通のオッちゃん、歳は67歳、どこにでもいそうな人です。
膵臓ガンとか原発不明ガンとか言われ、余命3カ月と言われたのが1年以上長生きしました。

ちょうど一年前、私は「黒木瞳のあさナビ」というラジオ番組に出演しました。プチ芸能界デビューしたのです。この番組、月曜日から金曜日までの朝6時42分から約5分間放送され、様々なジャンルで活躍している人、頑張っている人を紹介するとっても良い番組です。

私が出演する前後に森永卓郎さんが「黒木瞳のあさナビ」にちょうど出演していました。
森永さん、ガン闘病中ということでしたが、めちゃくちゃ元気に出演されておりました。しかし、出演していた森永さんの写真を見て、まさに死に逝く人の顔をしていたことに驚きました。

森永さん、小学生の頃の成績は普通、小学5年生の時に初めて5段階評価の4の通知書をもらい驚き、担任の先生に質問したそうです。担任の先生からの答えは、「卓郎くんへの人生のプレゼントですよ。」と言われて嬉しくなり、勉強が好きになり、結局東大卒です。

経済アナリストという肩書がありますが、俳優もやり、お笑い系もやり、ライザップもやり、一体何が本職かわからない活動をしていました。私が知ってからの約1年間、森永さんは死に逝きながら本を1か月で10冊以上書き上げ、亡くなる二日前まで仕事をしていました。

森永さんは死ぬことを怖いなんて思ったことがないそうです。いつか死ぬ人生を楽しむ、とにかく一生懸命に楽しむ、それしかないと言っていました。どんなに小さな仕事が来ても、一生懸命にその依頼にこたえることをミッションにしていたそうです。全ての人に愛されていたと思います。

森永さんは生き切ったと思います。私も森永さんのように生き切りたいと思います。
真逆にある生と死を結び付けた生き方に、アッパレと言いたいです。
生と死をつなげること、そんなにできることではないです。



2025年01月30日(木)

負けず嫌い

いつの間にか負けず嫌いになっています。
小学校の頃、勉強ができなくても何も悔しいと思うことはありませんでした。
中学のころ、卓球部で必ず決勝で誰かに負けて二位。そういうものだと思いました。



初めて悔しいと思ったことは、中学3年の卓球県大会個人予選で負けるはずのない人に負けてしまったときに涙を流しました。ちょうど50年経った今でも覚えています。私が負けた相手の名前はツトムくん。あの時なぜ負けたのか、どうすればよかったのか、これからどうするのがよいのか、と今でも思います。

数学だけは負けたくない。と思うものの、そんなにできていませんでした。
数学の親戚の理科も負けたくない、と思いました。同様にあまりできていませんでした。
でも、ノーベル賞を目指そうとし、英語も話せるようになりたいと思いました。

そんな私が、負けない!と意識し、負けず嫌いになったのは
大喰い、痩せの大喰いでした。趣味は「おかわり!」。食前にラーメンを食べ、夕食を大盛に、デザートで牛丼を食べていました。食べ放題、魔法の言葉で引き寄せられてました。



次に長湯、お金を出して銭湯に行くのだからできるだけお風呂を堪能しようと考え、熱い湯船に長く浸かるようになりました。誰よりも長く湯船に浸かる、負けませんでした。なので私よりも遅く入ってきた人に、「こいつに負けない!」と決めて長湯をしていました。

そんな私が、いつの間にか負けず嫌いになり、一番になりたいと思うようになりました。
ただ、ディスレクシアという文字入力が弱いという障害をもっており、整理整頓ができない、性格が歪んでいるという凸凹人間なので、こだわりを持っての一番を目指しました。

大学受験では、自分が思っている以上に成績が延びました。
数学は偏差値100、一番。一番安定して一番をとっていたのが化学、つまり満点です。
思い込み、自分自身を信じ、集中することの大切さを学びました。

今、負けず嫌いになった私が一番心配していることは、車の運転。
ハンドルを握ると人が変わる・・・と言われるタイプかも知れません。
パワーは今一つだが燃費が良いエコな車プリウスが最近パワフル、困っております。



で、書きながら思うこと
医師として、一番になっているのか
人として、一番になっているのか

一番の医師とはどんなものか。一番の人とはどんなものか。
今まで考えたことがないことですが、これから意識してみたいと思います。
そして、一番とは何なのかも考えてみたいと思います。


2025年01月17日(金)

あれから30年

1995年1月17日、阪神淡路大震災が起こりました。
あの日のことを思い出します。
テレビをつけてみると高速道路が壊れて横たわっている映像が静かに流れていました。



働いていた病院に支援派遣の申し出をし、1週間後神戸へ行きました。
大阪は全く普通。阪神電鉄に乗り換えて当時の終着駅である青木(おおぎ)駅までいき、医療ボランティアの拠点であった東灘区の住吉病院まで歩いて向かいました。

一階部分が潰れてグチャっと圧迫骨折状態の家屋が連なり、住民同士が「生きとったぁ!」という会話をして避難所暮らしをしていました。近くには有名な灘高校があり、山口組の総本山があり、入れ墨の入ったオッサンがボランティアをしていたことに驚きました。

震災後1週間後なので様々な支援物資が搬入され、病院ではコンビニ弁当が食べ放題でした。焼き肉チェーン店の炊き出しで焼肉BBQが開かれ、自宅で動けない家族へと鍋を持ってきていた被災者を思い出します。支援物資がドンドン届く時期でした。

コンビニ弁当に飽き、野菜が食べたくなり、でもあと少しで東京に戻り普通に戻れる。
家族が亡くなっているのに自宅に帰らず医療活動をしている同僚に涙しました。
1週間我慢すれば普通に戻れる私たち、いつまで被災暮しが続くのかわからない被災者たち。

避難所までたどり着けない市民を支援するために、各地域へ歩き回り訪問しました。
災害現場の臭いを脳に沁みこませ、私たちの代わりに犠牲になってくれた被災者を自分のこととして支える心を学びました。最後に1週間ぶりに入った有馬温泉が懐かしいです。

大都市である神戸、必ず復興するとみんなが信じて、そして自信をもって復興しました。
その後も東日本大震災、能登半島大震災と災害が続いております。どこかで災害が起こりますが、必ず復興するというという希望の光があれば、日本は豊かな安心大国になれるでしょう。



1995年は、私にとって特別な年です。
3月にはオウムサリン事件が起こり、働いていた東京の病院にも患者さんが来ました。
そして6月、父が交通事故を起こし、入院していた病院で父は壊れていきました。



1995年、松永医院を閉じようと、紹介状を書きに千倉に戻りました。
東京で一生病院勤務医していこうと思っていた私が、千倉に戻るきっかけの年になります。
つまり、千倉に戻って30年が経ったということ。人生、不思議なものです。


2025年01月10日(金)

生と死をつなぐ

涙を流しながら自分の思いを語れるような人間になりたい。
私が尊敬する作家であり、医師であり、大学の先輩でもある鎌田實先生は涙を流しながら人生の物語を語るので、より感動的なお話しとなり、心に沁み入る講演となります。



私は涙が出てしまうと言葉が詰まり、話をすることができなくなります。
鍛えればできるようになるのだろうかと、早朝、奇麗な星空をみながら願いました。
涙を流す動物は、人間のみだろう。

私が一番大好きで、一番尊敬する母が亡くなったとき、唯々涙があふれて話をすることができませんでした。10年経っても、外来で母の話をされると涙が出てしまいました。
20年経って、ようやく自分から母の話をすることができるようになりました。

私の生業は、「いのちを助け、いのちを支え、そして看取ること」。
最近、看取るという言葉を足し加えました。
いつか来る死を受けとめ、受け入れることが大切だと思うようになったからです。

死と生、逆向きのベクトル、死と生は闘いあうものだと思う現在があります。
しかし、全ての人に最期は必ず来ます。
その死をあってはならないこと、敗北の証だと思うと、人生の最期が辛くなります。

生と死は、生の終わりに死が必ず現れます。
生と死は、つながっています。
生と死は、お隣さん同士なのです。

現在、生と死は分断されています。
死が病院のコンクリートの壁で見えなくなり、死が怖いものになっています。
その死を、味噌汁の臭いのする自宅へ取り戻し、老いて死に逝く文化を取り戻したい。

私たちの生業(なりわい)

生と死をつなげること。
満足死を達成すること。
つまり、死んでも、生きているということ。


2025年01月07日(火)

2025年を思う

2025年がスタートしました。
雲一つない水平線からの初日の出を見て、木更津へ初売りの買い物へ行き、千倉に戻って雑煮を食べ、早速10Kmを走りました。お正月があっという間に過ぎ去りました。



おそらくできないけど、実行したい目標を考えてみました。
・ディスレクシアという障害をもつ私が、本を少しだけ読む。
・体重を72Kgへ落とす。今は正月太りで5Kg以上の減量が必要となります。
・節酒する。呑まない日を増やす。

医師として、仕事上の目標は
・医療のボトムアップを図る。
・地域医療を通して、地域を元気にさせる。
・理想の「いのちを助け、いのちを支え、そして看取る」医療を求める。

そして、その結果
・日本一の在宅死亡率を達成する。
・人と人とをつなげ、助け合い、支え合う地域を目指す。
・忘れかけている地域での「死」を受け入れる文化を再興させる。



家族の目標としては
・それぞれが夢を持ち、目標を成就すること。
・スマホをしながら食事をとらない。
・ご主人様に逆らわない、ケンカをしないこと。

自分自身のこと
・千倉みらいプロジェクトが実行されること。
・壊れかけている身体と頭をいたわり、適当な負荷に耐え、魂を研ぎ澄ますこと。
・良い医師になること。



世界を見て思う
・戦争は悪と誰もが思うものの、後ろから武器を供給している先進国?がある。。。
・地球温暖化で地球が沸騰して、壊れているのに、それを解決する政治家出てこない。
・便利になり、物質的に豊かになっているのに、人々は幸せになっていない。



2025年を良い年にしたい。
開業医として一番脂が乗っている60歳代の折り返し地点です。
今が大切。毎日の1%の積み重ねで、気づいていみたら201%になっているだろう。
みんなに支えられて、実りある一年にしよう。


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